片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

土手は家畜たちの「ごちそう」だらけ

2012年05月30日 | 子供時代の思い出
こんなに生い茂った草を見ると、子供時代を思い出す。
私の役目は飼っている山羊の餌取りだ。
畑の土手や道の土手に生えている草を鎌で刈り取って背負い籠に入れる。
どこの家も家畜を飼っているから、近場はほとんどいつも刈り取られていて、足場の悪いところや山のほうまで行かないといい草がない。
この写真のように、刈りきれないほどある場所を見つけたらきっと歓声を上げているはずだ。

質素にむだなく暮らしていた時代が懐かしい。


道路や地面をキャンパスに絵を描こう!それを投稿しよう

2012年05月13日 | 子供時代の思い出
昔はろうせきで庭や道路に絵を描いたものだ。

昨日来た孫が家の前の道路に絵を描いていった。

子供同士で夕方暗くなるまで遊んだ昔を思い出した。

みなさん、子供や孫に道路や公園で絵を描いてもらい、それをお絵かき大好きドットコムで永久保存しませんか。

あきらめることの意味

2012年04月10日 | 子供時代の思い出
以前にもこのブログに書いたが、私が小学校4年の時の出来事。
台風が来て畑の作物がめちゃくちゃになった時の親父の言葉が忘れられない。
ひとこと「あきらめるか、、、」だ。
もとよりあきらめる以外に方法はないのだが、口に出して言うことで、次の一歩を踏み出せる。
親父は、農耕用の牛を使って、山の木をトラックが入れる道のところまで引き下ろす木賃仕事をは始めた。そして家族を養ってくれた。

ヤギの餌を探して

2012年04月08日 | 子供時代の思い出
子供のころ山羊(やぎ)を飼っていて、その餌を探して鎌を持ちかごを背負って道端や畑の土手をうろうろしていたことを突然思い出した。
山羊が一番好んで食べたのが、あまなと言っていたが、カンゾウだ
とてもやわらかくて、手にとってあげると、いかにもおいしそうに上下の歯を左右にすり合わせながら、あまなをすりつぶして食べる。この、いかにもおいしそうに食べるしぐさがなんとも言えなかった。
しかしかなりの量を食べるので、山羊のための餌とりは大変だった。

今、春になってあちこちにおいしそうな草が生えている。しかし誰も採らない。子供のころだったら山羊の餌が見つかったと狂喜したことだろうにと懐かしく思う。


麻の雑巾

2012年03月26日 | 子供時代の思い出
子供時代の思い出をもう一つ。

私の生まれた地域では麻を作っていた。
麻は、完成品は繊維だが、植物の麻の皮を剥いで、繊維の部分を取り出すために、カンナの刃を手に持って、平らな板の上でしごくことで金色の繊維を取った。

その残りの部分にも繊維粕が切れて残る。それを水洗いを丹念にすると繊維部分だけが残る。巨大な糸くずみたいになる。
それを手ごろな分量にして雑巾として使うのが普通だった。
布などで雑巾を作るのは贅沢だった。

しかしよく汚れが落ちた気がする。
保水力は抜群だった。
麻は今でも雑巾に一番いいかもしれない。
でも高級品になってしまうでしょうね。



日比谷公園の鳩を見て美味しそうだと思ったアグネスチャン

2012年03月26日 | 子供時代の思い出
日本に来たばかりのアグネスチャンさん。丸々ふとっている日本の鳩を見て、そう思ったそうです。
写真は木の枝。私の田舎では「ぼや」と言いました。焚き木です。
私はこれを見るたびに、もったいないと思います。子供の頃よく山にぼや拾いに行かされたからです。
これだけあったら一週間は持つなあ、と。

八ツ場ダムのできるあたりにあった茶屋の高橋ナツ子さん

2012年03月19日 | 子供時代の思い出
子供の頃父が、耶馬溪のなっちゃんと呼んでいたのはこの方だったのか

耶馬溪とは、八ツ場ダムができるというあたりいったいの渓谷のことで、地元の人が、九州の耶馬溪に似ているということで関東耶馬渓と呼んでいたところだ。正式名称は吾妻渓谷(あがつまけいこく)。

こちらの画像がいいですね。

私が出た岩島第二小学校は、ここから歩いて20分くらいのところにあります(した)。

明治の小学校の机に見る、子供への大きな愛

2012年02月26日 | 子供時代の思い出
私の小学校の頃の机は、多分明治時代から使われてきたものだと思う。
明治になって全国に尋常小学校が設置された。
士農工商の身分制度が解かれ、明治19年に小学校令が出され、義務教育がスタートした。
地域の人たちは、子供たちのために学校を建設した。
机も作った。
心をこめて地域の人たちが作った机だ。
天板を持ち上げると中に教科書や筆箱、習字の道具などが置けた。
私が使っていたのは、一人用の机で、ナイフで歴代の子供のいたずら彫りが必ずあった。
もちろん私も肥後の守でいろいろ彫った。
昔の親は仕事が忙しくて子供の面倒など見ている暇がなく、子供にとって一日はたっぷりあって、遊び放題だった。毎日が夢のような日々だった。

今の子供は親の監視から逃れられない。
毎日ダメダメダメダメダメダメの速射砲。
おせっかい、。

そんな子供たちを見ていると、自分は、現代に生まれなくてよかったとつくづく思う。

遠くから見守る子供への大きな愛は必要だが、小さな愛(おせっか愛)は、これから大きく伸びようとしている子供の芽を摘んでしまうような気がする。

特に最近の日本の男の子は意気地がないと言われるが、母親に余裕がありすぎるせいだと思う。面倒見すぎ。

話がだんだん発散してくる。





NHKスペシャル 天空の棚田に生きるを見て子供時代を思い出した

2012年02月05日 | 子供時代の思い出
NHKスペシャル 天空の棚田に生きる。

標高差500mの間に無数の棚田がある。
棚田は、上の田から下の田へ水が受け継がれる。だから村人全員協力するしか生きる道はない。その昔チベットから来たハニ族がここに棚田を開いた。
天然の仕組みで水は枯れることなく永遠に稲を作り続けることができる。
去年も今年も来年も10年後も同じことの繰り返した。
お米を作って子供たちに食べさせることができる。これが何よりも喜びだと語る女性。
都会の人はここにに来て美しいと絶句するが、我々には生活だと語る老人。

牛に鍬を引かせて田を耕す光景は、私の子供時代と同じだ。
こんな風景だった。

テレビを見ながら、あまりの懐かしさに呆然としてしまいます。
食べ物を作って子供に食べさせることができる。これを幸せと言わずに何が幸せかと心の中では思ってます。それを実際にやって堂々と生きているハニ族の人々。本当に感動しました。

こちらにハニ族の棚田のブログ記事がありました。


五味君懐かしいですね。ご苦労さまでした。

2012年01月08日 | 子供時代の思い出
朝日新聞埼玉版に高校の同級生が写真入りででかでかと載っていた。
群馬県渋川工業高校電気科の同級生だ。
高校2年の時東京オリンピックがあった。
彼は陸上部で、聖火リレーに参加した。
写真は、そのときのトーチだ。


彼の経歴にはこう書いてある。

1947年2月  群馬県渋川市に生まれ、地元の工業高校陸上部主将として東京オリンピックの聖火ランナーを務める。
1965年4月  大倉電気に入社。秩父工場に配属。
1087年9月  労働組合委員長に就任。
2001年10月 会社が民事再生法に基づいて倒産。同社名で再生。
2007年3月  定年で嘱託に。
2011年3月  嘱託契約満了で退職。

もういいでしょう。これ以上は働かなくても。

46年間苦労の連続だったという。
会社は電話の中継所に使う増幅器を作り電電公社に納めていた。
一生懸命働けば社長になれると思っていたという。
転機は臨時工の解雇だった。迷わず、簡単に首を切られてしまった労働者を支援した。そのせいか事務担当に配置換えされ、上司に監視された。希望退職の肩たたきにも耐えた。人より率先して働いた自負があった、当然定年まで働けると思っていた。それが会社の都合で人生を振り回されることに遭遇した。
そして労働組合の委員長になった。
その間にも会社は縮小を続け、仲間が去っていった。
1800人いた会社はついに倒産し、100人の会社として再生した。
五味君は嘱託社員として最後まで残り、営業を続けた。

二人の子供は独立し、奥さんと秩父の自宅で二人暮らしだという。

私も、もしかしたら同じ道を辿ったかもしれないと思った。

ごくろうさまでした。
いつかお会いできればと思います。


病気と往診

2011年11月24日 | 子供時代の思い出
子供の頃、病気になって、かかりつけのお医者さんに往診してもらった記憶が何回かいある。お医者さんは神戸(かんべ)さんと親しまれていて、家から10kmくらい離れた町のお医者さんだった。ルノーに乗って往診に来た。
高熱が出て安静にしていなければならないときに病院に行くという考えは、昔はなかったような気がする。お医者さんを呼ぶのは普通だったような気がする。しかしいくらかかったのだろうか。先生もきっとあまりお金を請求しなかったのかもしれない。
東京に出てきて感じたのは、どんなに辛くても、医者を呼ぶなどということは不可能だということだ。

すべては患者のために。
この精神が、今医療に求められているような気がする。