「デミアン」を読む以前に、ヘッセの小説では一冊だけ「漂泊の魂(クヌルプ)」を文庫本で読んでいた。昔、よんどころない旅行に出たことがあり、途中米子に立ち寄ったとき市内の古本屋で買ったものである。それまでヘッセの小説など見向きもしなかったのに、この小説を選んだのは、財布に負担の掛からぬ均一本だったのと、重荷になっていたそのときの境遇から解放されたいという一途な願望があって古い文庫本の題名に惹かれたからだと思う。
まったく堅固な志操を持って生活している者にとっては平明に読み通せる小説であるが、その日その日をなにかに押し拉がれて暮らしている者にとっては、つい感情移入してしまうところのある小説である。まして青空の下、米子城跡の公園で小説を読むなどという所業は、既にして自分を見失っていた証拠と言えるかも知れない。中篇に満たない小柄で穏やかな小説のはずだが、時と場合によっては予想外の化学反応を引き起こし、内部に新しい自分が組成されつつあるのではという予覚めいた陶酔感を生み出す力を持っている。
「クヌルプ」に満ちている豊かな情感は様々な形で深く読者に沁み込むのだろうが、閉塞状況に陥っていると感じながら秋空の広がる城跡でいっとき古本に読みふけっていた心根は、小説の情感とは縁もゆかりもない、“己のみ佳し”とするいい気な思い上がりでしかなかったにちがいない。以来ずっと、そのときの心根と城跡の風景とは、胸の深いところでかすかな余韻として残り、時に慙愧の思いを伴って強く甦るのである。
「デミアン」を読んだのは、これから十年過ぎた後のことである。「クヌルプ」から想像されるヘッセ像が一変したような気がしたのを覚えている。ヘッセという小説家が横溢する衝動を詩的に統御するだけでなく、霊知的な神秘学などに深く通じていることに全く無知だったのである。その後、いずれも古本で「シッダールタ」、「荒野の狼」、「暁の巡礼」、「知と愛」、「ガラス玉遊戯」などの小説を辿って行くが、読み通せずに終わったものも少なくなく、心に届いてそこに座り込まれるような印象を受けたのは、結局、「クヌルプ」と「デミアン」の二作品だった。
そのまえも、そのあとに起こったことも痛いことだらけだったが、歳を重ねて自分自身の奥底に降りて行っても自分の影を映し出す鏡に出会えないでいるのは、情緒に流される田舎芝居に寄せる執心を、懲りずにまだ捨てていないことによるのだろう。
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