二十二番目の岩戸山は、『古事記』『日本書紀』に記される「国生み」と「天の岩戸」の神話を故事にもつ曳き山で
す。「天の岩戸」は、素戔鳴尊の乱暴に天照大神が岩戸に隠れられたため、天地は常闇となり、八百万神は安の
河原に集まって対策を練り、常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ、鏡を鋳造し、500個の勾玉をつくり、天香山の榊を立て、
天鈿女命が舞ったという伝承です。屋形内に、伊弉諾尊、天照大神、手力男命の3体の人形が飾られております。
山鉾には、鉾と山があると説明いたしましたが、岩戸山は山を改造した曳山(ひきやま)と呼ばれる形態で、見た目は鉾と同じです。山と鉾の外観上の
大きな違いは、まず大きな車輪の有無でが、鉾には大きな車輪があり、本来の山には大きな車輪は付いておりません。しかし曳山には鉾と同じく大き
な車輪が付いております。そこでもう一つの違いは屋根を貫く真木の有る無しです。鉾の場合は、20メートルにも及ぶ高さの真木に両側に広がる榊や、
さらに天王座と呼ばれる部分や、その先に伸びる鉾頭の飾りがつきますが、山の場合は屋根の上に真松と呼ばれる松の木が立つのみです。岩戸山に
も山の証としての真松が立っており違いを見ることができます。
46年前までは、前(さき)の祭りと後の祭りに分かれ巡航日が異なっておりました時の、前の祭りの最後尾を務めたのが、船鉾です。
二十三番目の船鉾は、『日本書紀』の神功皇后の新羅出船に由来する鉾で、屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け頭に天冠を頂き紺金襴
の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けております。応仁天皇を生んだゆかりから、御神体に、晒を巻いて置き、巡行後に安産祈願の御腹帯として授与
する習慣があります。現在の船鉾は、宝暦年間に計画され、天保年間に完成。船頭に「鷁(げき)」と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾っております。
二十四番目の北観音山は、後の祭りの先頭を行き、応仁の乱の時代から隣町の南観音山と、1年おきの交代で山を出していたといわれておりました。
隔年にでるというのは例がなく、この両山だけで、もとはかき山でしたが、後に曳き山になりました。楊柳観音像と韋駄天立像を安置し、鉾ではないの
で真木の代わりに真松を立てております。松は、毎年鳴滝から届けられ、南観音山と北観音山で二本の真松を籤でその年の所有を決めております。
後の祭りの幟も見えます。
左の車輪の前に立つ男性が手に持ってる先の尖った槍の頭のような木は、車輪の下に咬ませて鉾や曳山の方
向を微調整する道具です。中々真っ直ぐばかりには進まないようなので、巡航中に何度も使われ、その都度に鉾
が軋むような大きな音を立てます。
二十五番目の橋弁慶山は、山の御神体がなにを表すかは一目瞭然で、五条の橋の上、牛若丸が軽々とぎぼしの
上に飛び上がり、弁慶がなぎなたを構えるシーンです。足駄の前歯だけで人形の体を支えるこの躍動感は、とても
500年も前の造形とは思えない素晴らしさがありかき山としてただ1つ、くじ取らずであったことや、山籠、真松もな
い形式からも、山の中では屈指の古いものであると説明されております。
その歴史のある山ですが、かに手には多数の外国の方の姿が見受けられます。
いつも感じておりますが、観光で世界にアピールしている国際都市の京都の景観として、美的センスに欠ける電線や看板は、行政の怠慢を浮き彫りに
しております。せめてメイン通りくらい何とかしてほしいものです。無駄な道路補修より、優先的に市民の税金を使ってほしいと考えるのは私だけでしょ
うか?
二十六番目の八幡山は、八坂さんの祭りに石清水八幡をまつるのは不思議ですが、当時それだけ八幡さんが信仰されていたあかしだと云われており
ます。社殿は江戸時代後期天明年間の作と伝えられる総金箔押しの華麗なものです。前面の鳥居の笠木のうえに、向かい合って八幡さんのシンボル
の鳩が2羽、止まっております。
二十七番目の鯉山は、前掛けや見送りは16世紀のベルギー製のタペストリーで、重要文化財に指定されており、
ギリシャの叙事詩に題材をとって人物や風景が描かれており、山鉾きっての貴重なものだそうです。人物でなく、
魚をテーマにするのは山のなかで唯一で、竜門の滝をのぼる鯉は竜になるとの言い伝えで、木製の鯉が勢い良
く水しぶきを上げる様は勇壮で、立身出世を願い毎年粽を求めに行かれる方も居られるそうです。
「鯉山の前掛けや見送り」を飾るタペストリーは、16~17世紀のベルギー製の織物で、国際色豊に彩られ、鎖国の江戸時代中、京の町民が、長崎の
出島をたよりに世界各地の品々を取り寄せたそうです。 その当時の世界の最先端技術を取り寄せる事により、西陣織や染色技術、ひいては清水焼
などが、刺激を受け技術が向上していったと考えられ、その伝統が、現在世界のIT機器の電子部品技術などに引き継がれております。京都人のある
部分、保守的でありながら、最新を生み出す能力には、世界に誇れるすばらしいものがあり敬服いたします。
二十八番目の役行者山は、鈴鹿山と共に山鉾町最北の山で、役行者(えんのぎょうじゃ)は自ら修行するだけでなく、庶民の中に入って医療などにつ
とめた僧のことで、古くから民衆に人気があった実在の人物です。人形3体はその役行者をまん中に、鬼の顔の一言主神、葛城女神が祀られ、三者
の関係はさだかではありませんが、者が大峰山と葛城山のあいだに橋を架けようとして、鬼を使ったとの伝説によるらしいです。人形が多いだけに多
数ある山の中でも最大級の大きさになります。
こちらの山も、かき手に外国の方が参加され、沿道の友人達と会話を交しながら祭りを楽しんでおられました。
二十九番目の鈴鹿山は、旧東海道の難所・鈴鹿峠のことを指し、畿内と東国を結ぶ要衝として、歴史上のエピソードも数多くあり、商人を狙う盗賊が多
かったことが、鬼が出る、に転化したようで、この山の神・鈴鹿明神(瀬織津姫命)の伝説も鬼退治のおはなしになっております。大なぎなたを手に、立
て烏帽子の女神の姿がりりしいです。
三十番目の黒主山は、油天神山が梅なら、こちらは桜を松と共に飾り、華やいだ雰囲気をかもし出す山になります。謡曲「志賀」のなかで、六歌仙の
1人、大友黒主が志賀の桜を眺めるさまをテーマにしており、杖をつき白髪の髷(まげ)の翁の人形は、気品があり、山を飾る桜の造花は、家に悪事を
入れないお守になるそうです。
三十一番目の浄妙山は、橋弁慶山に似て、躍動的な人形の姿が人目を引き、こちらは宇治橋の上で、宇治川の
合戦をあらわしております。一来法師が三井寺の僧兵・浄妙の頭上を飛び越して先陣をとった故事にちなむもの
で、揺れる山の上で人形の上にさらに1体の人形を乗せ、上下の人形を、上さま、下さまと呼ぶそうです。浄妙の
よろいは室町時代のもので、重要文化財に指定されております。 どの山鉾にも貴重な美術品が装着され、巡航
のことをよく、動く美術館と言うたとえをいたします。
32番目の南観音山は、毎年最後尾を飾り、先頭の長刀鉾から3時間近くあとの巡航となります。俗に北観音山の観音様は男性と云われ、南観音山は
女性といわれており、南観音山では宵山の夜更けに翌日の巡行の無事を祈って“あばれ観音"の行をされるといういい伝えがあり、「あばれ観音」の別
名があります。楊柳観音像と善財童子像を安置する曳山の楊柳観音は、三十三観音の筆頭とされ、姿を変えて、手に柳を持ち薬師観音と同様に衆生
の苦難を救う観音様と伝わっており、この山の楊柳観音は頭から袈裟をつけ趺座(ふざ)されております。
山鉾巡行は午前中に終わらせるのが本来の習わしでいた。昔は、午後になると鉾(屋根から空へ伸びている部分)に疫神が吸い寄せられると信じられ
ており、本来なら疫病神と一緒に鉾も処分しなければいけないところなのですが、そういう訳にもいかないので、その変わりに早く片付けようとした江戸
時代からの習わしだそうです。
四条河原町を上り三筋目を東に入った所に、たん熊の北店があります。33年前に修行に入った時と周りの景色は少し変わっておりましたが、 店の構
えはそのままで若かりし10代の修業時代を思い出しておりました。久しぶりなので、店をのぞいてみましたが、座敷のお客さんの靴が沢山見えたので
声を掛けずに出てまいりました。私の京都生活の原点であり思い出深い場所の一つです。
高瀬川の流れも変わらず、木屋町を料理を担いで先斗町などのお茶屋さんに出前に行ったことも思い出しました。
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