京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

祇園祭 山鉾巡航 前篇 7/17/2011

2011年07月31日 | 京都歳時記

      

       今年も17日炎天下の中、祇園祭の鉾巡航が行われました。11時半、毎年先頭を行く長刀鉾が三度目の辻回しをする御池新町に到着し、人込みをか

      き分けながら、河原町方面に向け巡航を逆行する形で見てゆきます。 祇園祭は17日の鉾巡航がメインの様に映りますが、本来は、祇園町の八坂神

      社の祭礼の一部で、7月1日の「吉符入り」から31日の「疫神社夏越祭」までの1ヶ月間に行われる関連行事などの事をすべて含めて祇園祭りと云い

      ます。7月14日から16日まである宵々々山・宵々山・宵山と 7月17日の山鉾巡行は、祭りの一部にと位置づけされておりますが、観光の面から考え

      ますと、絢爛豪華な装飾をまとった山や鉾は、観光客立場から見ますとやはりメインに位置づけされており花があるのも事実です。

 

 

                  

       唯一の生稚児 長刀鉾は毎年巡行の先頭を行く“くじとらず”の鉾で、選ばれた生稚児が禿(かむろ)と共に搭乗いたします。かつては船鉾を除いた

      全ての鉾に稚児が載っておりましたが、今では生稚児が搭乗するのは長刀鉾だけとなっております。   天明の大火(1788)で壊滅的な被害を受けた

      函谷鉾が天保10年(1839)に復興する際、稚児人形を用いたのをきっかけに、他の鉾もそれにならい人形に替わっていきました。 稚児は8~10才ぐ

      らいの男子が選ばれ、祭りに際しては長刀鉾町と養子縁組をし、6月中の大安の日に結納が贈られ、また、2人の禿が選ばれ、行われる行事のすべ

      てに稚児のお供をいたします。稚児に選ばれた家では、結納の儀に合わせ、八坂神社の祭神・牛頭天王をお祀りする祭壇が設けられます。

      「7月1日 」 お千度と呼ばれる行事で祇園祭がはじまります。

      涼み衣裳にぽっくりを履いた稚児が二人の禿と同道し、八坂神社本殿を3周した後に昇殿参拝いたします。稚児に選ばれたことを神前に報告し、祭

      礼中の無事を祈願する行事を「お千度」といい、「お千度」の意味は、お供の町役員・祇園甲部の芸舞妓なども含め3周すると”千度”廻ったことになる
      というものです。

       「7月5日」  吉符入(きっぷいり)

      長刀鉾では稚児の名簿を吉符といい、これを祭壇に納める行事を吉符入といいます。稚児は「蝶とんぼの冠」を頭に頂き、振袖に袴を着用し、初めて

      町内の人と顔合わせをし、長刀鉾会所2階で稚児による太平の舞を披露いたします。

       「7月12日 」 曳初め(ひきぞめ)

      稚児が初めて鉾に乗り、午後3時半頃から町内で曳初めを行います。女人禁制の長刀鉾もこの時だけは誰でも参加でき、綱を曳けば厄除けになると

      いわれており、鉾町の学区の小学生などが参加いたします。

      「7月13日」 社参の儀

      稚児が白馬に乗り、供を従え、正五位少将の位と十万石大名の格式をもらう儀式の為に、八坂神社へ社参することを「社参の儀」といいます。 南門

      の大石鳥居で下乗し、正面から昇殿し、宮司や神官が海山の幸を献じ、稚児側から三座分の粽が供えられ、宮司の祝詞の後、稚児は外陣に進み神

      酒洗米を頂きます。この瞬間に稚児は「神の使い」となり、この後、14日~16日まで毎夕7時に、介添えの人々と共に社参し、町内に戻って鉾の上よ

      り披露いたします。「神の使い」となった稚児は、食事の際にお膳は火打石で打ち清めてから食べるのがしきたりで、稚児家では、父や祖父の男性だけ

      で食事をし、祭壇がある注連縄の張られた部屋で過ごすこととなります。                                                                                                                                                                           

      「7月17日」 山鉾巡行当日 - 巡行の装束 -

      早朝より稚児は厚化粧天眉をし、金銀丹青鳳凰の冠を戴き、衣装は雲龍の金襴赤地錦で唐織霜地の二倍織(ふたえおり)表袴(うえのはかま)、鳳凰の

      丸を浮織した帯状の木綿(ゆう)手繦(だすき)を左肩より右腰に掛けます。これは神に仕える装束の一つで、神の使いとしての稚児は公式には地上を歩

      かず、屈強な強力(ごうりき)が稚児を肩にし鉾の上まで昇ります。

      巡行のハイライト

      午前9時、長刀鉾を先頭に全ての山鉾が順に四条烏丸を出発。長刀鉾はくじ改めを行わずに通過し、ハイライトは稚児による「しめ縄切り」で、先頭を行

      く長刀鉾が四条麩屋町にさしかかった時に、通りを横切って張られたしめ縄を稚児が刀で切り払い、神域に入る道を開きます。鉾は四条寺町のお旅所

      前で停止し、疫霊を祭神にお渡しする御霊会(ごりょうえ)本来の儀式を行い、役員が玉串を捧げ、稚児が舞い、神社を遥拝して儀式は終了し巡航へと続

      いていきます。

 

 

 

 

      

      御池新町で先頭の長刀鉾が三度目の辻回しにかかりますが、その前に、稚児と禿は御池通新町で鉾から降り、八坂神社へと向い、八坂神社では位

      を返す「お位返しの儀」が行われ、稚児と禿は再び普通の少年に戻ることになります。

 

 

 

 

 

      

      長刀鉾は、  「くじとらず」の名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾で、命名は、鉾のてっぺんを飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀を竿頭にかざ

      しているところからきております。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納しましたが、鎌倉期にある武人が愛用いたしましたが、何かと不思議

      が起こり、返納したと云われております。大永2(1522)年、疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散したと伝わっており、鉾の創建時

      の嘉吉元年(1441)に竿頭にかかげる様になったと云われております。 真木は全長20メートル。現在、稚児が乗る唯一の鉾です。

 

 

 

 

 

      

      「くじ取らず」とは、応仁の乱の後、二十年ぶりで再開された1500年、山鉾の巡行の順序で諍いが起きた時以来、くじで順序を決める事になりましたが、

      先頭の長刀鉾と、最後尾の船鉾は「くじ取らず」といい、順序が変わる事はありません。 現在は、前の祭りの山鉾と後の祭りの北観音山から南観音山

      の9基は、24日の還幸祭に鉾巡航があり前後で日にちが分かれておりましたが、46年前に京都市が観光客の誘致を目的に17日に統一して行われ

      るようになりました。 しかし、祭り本来の形に戻そうという議論が高まり関係団体が、検討を始めております。

 

 

 

 

 

              

               鉾とは、屋根に長大な鉾(槍のような武器)を戴き、直径2メートルの車輪が付き、2階にお囃子の乗っているもの

              をいい、頭上の鉾に疫病神が吸い込まれると信じられていました。   山とは、鉾の変わりに松の木を戴き、山の上

              で出し物を演じる数人の者が乗ることはあっても、お囃子ほどの大人数は乗っておりません。この松の木にも鉾と

              同じように疫病神が吸い込まれると信じられていました。なお山には鉾と同じように車輪のついた曵山と、人が担ぐ

              かき山がありますが、現在では見えにくい所にタイヤをつけています。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      この、御池新町界隈は、とんでもない人込みで身動きが取れない状態でした。

 

 

 

 

 

      

      二番手の霰天神山(あられてんじん)は、 永正年間(1504ー1520)、京都が大火にあった際、急に霰が降り、たちまち猛火は鎮火したが、霰とともに小

      さな天神像が降りてまいり、そんな由来から、火よけの神様として祀られたのがおこりです。霊験はあらたかで、多くの山鉾が焼けた天明、元治の大火

      にもこの山だけは残り、町の誇りになっております。「雷(らい)よけ火よけのお守は、これより出ます…」と宵山に子供たちが歌いながらお守授与の受け

      付けをいたします。檜皮葺きの立派な社殿が山に乗ります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      三番手の孟宗山は、 中国・24孝の1人、孟宗は、母親が病気になったため、好物のたけのこを求めて竹林を歩きまわりましたが、寒の季節で1本もな

      く疲れて座り込んでしまったとき、たけのこが出てまいり、母親は元気を回復したという話からきており、町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町という

      のもこれに由来いたします。白綴地に雄渾な筆致で孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳の筆で、極彩 色が多い山鉾のなかで、墨一色が異彩を

      放っております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      四番手の芦刈山は、 御神体(人形)、衣装ともに山鉾のなかでも屈指の古さを誇り、人形のかしらには、天文6年の銘があり、また、小袖は 16世紀の

      作とみられ、重要文化財に指定されております。もっとも、現在の衣装は最近の作で、謡曲「芦刈」は、摂津の国・難波にすむ夫婦は貧乏が原因で別れ、

      妻は都へ出て宮仕えをいたしますが、夫が気掛かりで探したところ、落ちぶれて芦を売る夫を見つける、と言う話からきており、山の正面 、側面に芦の

      造花が飾られております。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      五番手の函谷鉾は、中国古代史話の孟嘗君の故事に基づき、戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用されましたが、讒言によって

      咸陽を脱出して、函谷関まで逃げましたが、関の門は鶏が鳴かねば開かないと知り、配下の者が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻を

      つくったので見事通り抜けたという話です。真木は22メートルあり鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられております。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      六番手の油天神山は、写真の撮り忘れがあり映像はなく申し訳ありませんが、 町名(風早町)の由来であるお公家さん・風早家の屋敷があり、この

      屋敷に祀られていた天神=菅原道真を祀ったという言い伝えがあります。山は、立派な朱塗りの鳥居が特徴で、天神さんと関係が深い梅の花と松

      とを一緒に立てられた紅梅が、華やかな雰囲気をかもしだします。見送りの毛綴(けつづれ)が名高いですが、山の所在地近くで生まれた故梅原龍

      三郎画伯の富士山の絵をもとにした綴になっております。

 

 

 

 

 

 

      

       七番手の四条傘鉾は、1987年、実に117年ぶりに巡行に復帰したやまで、元治の兵火のあとも巡行に加わっておりましたが、明治5年以降、消滅同然

      となり、道具類も散逸しておりました。綾傘同様、壬生六斎の棒振り、囃子での協力が復活に力になり、祇園唐草模様の大傘に錦の垂(さがり)で飾っ

      た花傘は応仁いらいの傘鉾の原形を伝えます。赤熊(しゃぐま)鬼面 の棒振り、踊り手、囃し方が帯同いたします。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      八番手の保昌山は、旧名に「花ぬす人山」といい、現在の保昌山は、平井保昌の名前からきており、藤原大納言方の孫で、致方の子で武勇にすぐれ、

      和歌も堪(たん)能でありました。恋した女官から紫宸殿前の梅を手折ってほしいと頼まれた保昌が首尾よく一枝を得ましたが、しかし北面の武士に発

      見され、射かけられた矢が頭をかすめ、保昌はほうほうの態で逃げ帰ったといわれ、盗難除け、縁結びのやまとされお守りが授与されます。

 

 

 

 

 

              

              九番手の月鉾は、 『古事記』によりますと、伊弉諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って

              天照大神、右眼を洗って月読尊、このあと、鼻を洗って素戔鳴尊を生んだといわれ、月読尊は夜を支配した神で

              すが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来いたします。鉾頭に、横40センチ、上下24センチの金色の三

              日月をかかげ、真木の中ほどに天王様を飾った天王台の下には籠製の船が真木を貫いてとり付けられておりま

              す。元治元年(1864)の大火にもわずかに真木を失っただけだったそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       十番手の太子山は、山鉾の真木は松が通例ですが、この山のみ杉を立てております。聖徳太子が四天王寺を建立するさい、自らが良材を求め山に入

      り、老人に大杉の霊木を教えられ、六角堂をたてたことに由来いたします。太子は、日本の仏教の基を築いたことで知られ、宗派をこえての「太子信仰」

      が民衆の間に広くあり、山に飾る太子像は、江戸時代の作で、トレードマークの鬟(みずら)に髪を結び、ふっくらした顔だちで白二重小袖姿で、高貴な印

      象をたたえます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      十一番手の占出山(うらでやま)は、 釣り竿を持った人形は、神功皇后の姿をかたどっており、九州・肥前の川で、鮎を釣って戦勝を占った伝説が由

      来となります。この山には「あいわい山」の別名が明治まで語られておりましたが、町衆に人気のあった山であったことをうかがわせます。色鮮やかな

      日本三景を描いた胴掛けが特徴です。

 

 

 

 

 

      

      十二番手の木賊山(とくさやま)は、世阿弥の謡曲「木賊」から着想され、木賊刈りの老翁が別れた愛児を思いながら舞う場面を表現しており、等身大

      の老翁像は足台に元禄5年(1692)の墨書があり、右手にかま、左手に木賊を持ちます。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              十三番手の鶏鉾は、中国古代の伝説「諫鼓」に由来し、天の岩戸の永世の長鳴鳥の故事にちなむとの事で、「諫
 
              鼓」とは、暦を制定した伝説の聖天子・尭帝が、宮廷の外に太鼓をすえ、政治に不満があればたたかせ、木を立て
              て、訴えを書かせました。世は治まり、太鼓は苔を生じて鶏が巣をつくったといいます。鉾頭は、紅白を互い違いに
              巻いた三角枠で、なかに同の円板が挟まれ、3つの角には紺いろの苧束の房がつけられております。中ほどに舟
              を担いだ人形が飾られます。

 

 

 

              

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              鶏鉾の見送り(背面を飾るもの)のホメロスの叙事詩「イーリアス」のトロイア戦争物語の一場面を描いた綴織(ペ

              ルシャ製) 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       十四番手の伯牙山(はくがやま)は、 戦後に町会所が無くなったため、綾小路に面した旧家・杉本家の表の間の格子を外し、お飾り場にしており琴

       をまえに、斧をもった人形は、中国・晋時代の琴の名手・伯牙を表しており、怒りの目、紅潮した両頬は、友人の訃報を聞き、悲しみに打ち震えなが

       ら、まさに琴を打ち破らんとしている様を表します。明治になり多くの山が名前を改めさせられておりますが、この山も「琴破(ことわり)山」から改称し

       た記録があります。

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      高倉通りを北に上がった所です。木陰で休憩する方やお弁当を食べてる方もおられました。 

 

 

 

 

 

      

       炭火串焼きの串くら本店です。 お洒落な品書きが目に留まりました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       十五番手の綾傘鉾は、徒歩の傘鉾として応仁の乱以前のふるい鉾ですが、元治元年に焼けて以来、明治10年代に一時復活したもののふたたび中

      断し、ようやく昭和54年、巡行を再開いたしました。形の上でも変転を繰り返し、江戸期どうした理由からか、徒歩から引き鉾に変化し御所車風の屋根

      に風流傘が乗る古図が残ります。明治の復活では再び徒歩にもどり鬼形の踊り手を中心に、棒振り、鉦、太鼓のはやしかたが行列いたします。鬼形の

      踊り手は、顔を手拭いで隠し頭上に鬼面をのせております。

 

 

 

 

 

      

      炎天下の中、顔を覆ったままで、巡航の中で一番熱中症に罹りそうな役回りです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      十六番手の郭巨山(かっきょやま)は、山には屋根がないのが普通ですが、この山は日覆障子を乗せており、金地彩色法相華文の板絵として他の山
      にない古い形式を残していおります。名前の由来は、中国の史話にある貧しくて母と子を養えない郭巨が、思い余って子を山に捨てようしたとき土の
      中から金の釜が現れ、母に孝養を尽くした話によります。人形は、鍬を持つ郭巨と紅白の牡丹の花を持つ童子の2体からなります。


 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       柳馬場で、次の鉾までの距離が開いたため御池通りを横断することが出来ましたので、南側に移ります。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       十七番手の菊水鉾は、謡曲「菊慈童」から着想された鉾で、魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入ったところ少年に出会い聞けば、少年は 700年

      前に、王の枕を誤ってまたいだのが原因で都を追われたそうで、以後、普門品の偈を甘菊の葉に記しておいたところ露が滴り、この水を飲んで不老長

      生したという話です。慈童は、この薬水を勅使に献じました。一時途絶えていた鉾は、昭和28年に復興され鉾頭には天に向いた16菊が掲げられ、こ

      の鉾に限り「菊水」と篆書が掘り出した額がつきます。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      十八番手の白楽天山は、2体の人形の唐冠を付けたほうが白楽天で、帽子(もうす)をかむった僧形が道林禅師の像です。長恨歌などの名詩で有名

      な中国・唐の詩人、白楽天が道林禅師に仏法の大意を問いかけているシーンを表しております。この山も過酷な運命をたどっており、天明、元治の大

      火で胴組や人形の胴を失い、そのたびに巡行中断と復元を繰り返しております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      十九番目の山伏山は、山に飾る御神体が山伏の姿をしているので、この名前がついております。前(さき)の祭りでは一番北の山で、役行者山と同様、

      当時民間信仰として人気のあった修験道・山伏から着想されたそうです。正面の水引は、雲中の竜、青海波と麒麟を精緻な刺しゅうで描いた中国から

      もたらされた豪華なもので、見送りも中国・明時代のものとされております。

 

 

 

 

      

      二十番目の蟷螂山(とうろうやま)は、かまきり山、ともいわれ、文字どおりカマキリが屋根の上に乗り、からくり仕掛けで鎌や羽が動くようになっており

      動くたびに沿道から拍手と歓声が上がる、見ていて楽しい山です。「蟷螂の斧」とは、自分の力のほどをわきまえず、大敵に立ち向かうことですが、そ

      の勇猛さを賞した中国の君子の故事からきており、町内の事情で、明治初め以降巡行を一時中断しておりましたが、復帰いたしました。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              御池河原町で、二回目の辻回しを行う放下鉾(ほうかぼこ) 

 

 

 

 

 

      

      二十一番目の放下鉾は、鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来いたし、鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、

      その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれております。かつては長刀鉾と同様「生稚児」でありましたが、昭和4年以降稚児人形にかえ

      られております。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ、巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞いができるように作られておりま

      す。

 

 

 

 

 

              

              

 

 

 

 

 

      

      辻回しは、鉾の方向転換をするために行われ、地面に青竹を敷き詰め、その上まで鉾の前輪を進めます。水を撒き、すべりを良くしてから、音頭取りの

      扇子さばきに合わせて曵き手が鉾を横に曵いて、一気に方向を90度転換します。 一度で完了すれば、沿道からの歓声も一段と高くなりますが、2.

      3度かかることもあり、曳き手と音頭取りの腕の見せ所です。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

      

      これから、河原町通りを下がり後編へと移ります。 

 

 

 

 

 

              


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