高山寺は774年に光仁天皇の勅願によって華厳宗寺院として開創された寺院です。当時は神願寺都賀尾坊と称したと
伝えられており、814年には度賀尾十無尽院に改称、また、平安時代初期には天台宗の寺院となり、度賀尾寺(とがの
おじ)と改称されたといわれております。その後、一時荒廃したようでありますが、平安時代末期には文覚によって再興さ
れたと言われております。
写真は表参道から上がって来た所のものです。
案内図の右側の現在地表示の所に駐車場とバス停が有る為、ほとんどの方はこちらの裏参道から境内に入ります。
栂尾山(とがのをさん) 高山寺が正式な寺号で、1994年には世界文化遺産に登録されております。
国宝の石水院を囲む白壁です。
高山寺には、他の寺院に見られるような大きな山門は無く、唯一石水院の入り口にこの門があります。
門をくぐり突き当りの左手の庫裏が参拝受付になっております。
「石水院」は明恵上人が後鳥羽上皇から賜った学問所とされており、建てられたのは13世紀前半といわれ、上人時代の
唯一の遺構とされております。 写真は、石水院の庭園です。
庫裏で受付を済ませ客殿を通り石水院に渡りますが、客殿との間にある中庭です。
後鳥羽上皇の勅額
「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」明恵上人が上人自身の日常規則を
欅板に自筆したものだそうです。
佛眼佛母(ぶつげんぶつも)像 国宝の縮小図
西庭園に向かって佇む善財童子像
高山寺にある幾多の国宝の中でもっとも有名な絵巻物。鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)は、鳥獣戯画とも呼
ばれ、現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなり内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描い
たもので、特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。一部の場面には現在の漫画
に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称されております。
石水院から南側の眺めです。
この軒先に吊るされている風鈴の様な物の呼び名と何の為にあるのか後日電話でお寺の方に聞いてみましたが、判り
ませんでした。
西庭園
善財童子(ぜんざい どうじ)は、仏教の童子の一人であり、『華厳経入法界品』に登場い
たします。 『華厳経入法界品』に於いて、インドの長者の子に生まれましたが、ある日、
仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善智識)53人を訪ね歩いて段階
的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開くという、菩薩行の理想者として
描かれております。
「日本最古」と伝えられる茶園があり、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西が、当時の中国の南宋において種を得て、
帰国後に明恵に贈ったものと伝えられており明恵はこれを初めは栂尾山に植え、その後宇治やその他の土地に広めた
と言われております。
栂尾は茶の本園といわれており、そのお茶は本茶と言われます。天皇への献茶も毎年行われ、宇治の茶業家は古く
から毎年自家製の新茶を上人御廟に献供するのを慣わしとして今日に至っております。
開山堂・御廟へとつづく参道 先日登った愛宕山を思いだします。
昭和6年、明恵上人700年御遠忌記念として建てられた遺香庵茶室、拝観はされておりません。
開山堂 明恵上人晩年の頃の草庵禅堂院があった跡と伝えられており、堂内には「明恵上人坐像」が安置されております。
昭和36年、菩提心の拠り所として開山堂横に聖観世音菩薩像が安置されました。
明恵上人御廟 開山堂のさらに奥手にあります。
御廟前の石碑、手前しか確認出来ませんでしたが、上人御歌が刻まれております。
「山のはにわれも入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ」
御廟前から仏足石方向です。
釈迦の足跡の形を刻んだ石で仏像の発祥以前に古代インドで行われた釈迦の象徴表現の一つです。中国の唐を経て
日本にも伝わり、京都では比叡山西塔・釈迦堂前や清水寺にもあるそうです。
春日明神社と金堂
金堂(本堂) 境内の最深部にあり、現存の「金堂」は1634年に仁和寺から移し復興されたものといわれており、本尊の
釈迦如来像が安置されております。
金堂前の階段を下り真っ直ぐ行きますと表参道につながります。
左手に折れて石水院の前を通り駐車場に戻ります。 ゆっくり回って一時間強掛かりました。
高山寺は交通の便が悪くバスか車でしか来れませんので、近くの神護寺もセットで回られる事をお勧めします。
京都駅からですと50分、嵐山からですと20分掛かります。
これより更に北に30分ほど車を走らせ常照皇寺に向かいます。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます