阿弥陀寺(あみだじ)は、京都市左京区大原の北側に位置する古知谷(こちだに)にある浄土宗知恩院派の寺院で、山号は光明山、院号は法国院と
云いますが、一般には古知谷阿弥陀寺として知られております。
1609年(慶長14年)3月、弾誓(たんぜい)上人が開山した念仏道場です。弾誓上人は尾張国の出身で、9歳の折りに自ら出家され美濃国塚尾の観音
堂に参籠し、さらに同国武芸の山奥において念仏三昧、二十余年の修業を積まれ、その後、諸国を行脚して苦行修行を重ねた末、ようやく時節が到来
し、最後の修業の地の古知谷に赴きました。
古知谷に入った上人は、岩穴に住して念仏三昧の日々を送っておりましたが、近江国の人達との御縁でこの地に一寺を建立し、御本尊として人間とし
ての理想像を草刈り鎌にて刻み、自身の頭髪を植え、これを本尊として本堂に安置し寺の名を「光明山 法国院 阿弥陀寺」と付けました。しかし、阿
弥陀寺に在住して4年後の1613年(慶長18年)5月23日に、当寺の本堂脇の巌窟内で即身仏となられました。その後、弾誓上人のミイラ化した遺体は
石棺に納められ、巌窟内の石廟に安置されて現在にいたっております。
山門は、下層を白漆喰塗り込めとした中国風の楼門が建ち、門前の石柱には「弾誓仏一流本山」の石碑が建ちます。当寺は阿弥陀とともに弾誓像を
本尊として安置することから「弾誓仏一流本山」と称しております。
この弾誓上人におくれること百年、近江国平子山にあって念仏三昧を続けていた澄禅上人(ちょうぜん)は、弾誓上人の行跡を慕って当山に入り、本坊
から四町ほど上の岩穴にて常座不臥称名念仏すること5年の後の1721年2月4日に70歳で入定されておられます。
山門から歩くこと500m程登った所に本坊が見えてまいります。車の方は上まで登って行けます。
石組の山肌に建つ瑞雲閣
樹齢800年以上と云われる古知谷カエデ
こちらのタカオカエデは、寺の伝えによりますと弾誓上人が阿弥陀寺を開かれた時にはすでに古木となっており、阿弥陀寺周辺の古知谷は紅葉の名
所としても知られておりますが、その中でも最大のものといわれており、昭和56年6月1日に京都市の指定天然記念物にしていされております。
受付で拝観料を払い境内に向かいます。
山腹にある寺院なので、紅葉がもっと進んでいると思っておりましたが、太陽の当たり具合が悪いのかもしれませんね。
本堂左手の書院玄関より上がらせていただきます。
石廟 この巌窟は、上人が入定される一年前に修行中の僧らに頼んで掘らせた物で、上人は石棺の真下に掘ってある二重の石龕(せきがん)に生き
ながら入られ「ミイラ佛」となられました。明治15年にこの石棺が収められるとき、「ミイラ佛」も下よりお出しして現在この石棺に収められております。
宝物殿には、上人の所持品や、有栖川・閑院など各宮家から賜った品々が収納されております。
宝物館前の坪庭
本堂より
本堂には開山弾誓の像(弾誓が自らの毛髪を埋め込んだ自作の植髪像と伝える)を本尊として安置しており、浄土宗寺院では一般に阿弥陀如来を本
尊といたしますが、本尊の右側に木造阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)が安置されております。
日当たりが悪いのか、この時期にしてまだ紅葉していない樹も見られます。
本堂前の船石
五智如来像 五智如来(ごちにょらい)とは、五大如来ともいい、密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の
如来にあてはめたものだそうで、金剛界五仏のことだそうです。
本堂右手の梵鐘
瑞雲閣 瑞雲閣前に置かれた石塔は、燈籠の笠と台座の部分だそうですが、なぜ真ん中が抜けているのかは分からないそうです。
大原の山並みも綺麗に紅葉いたしておりました。これから三千院に向かいます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます