暦応四年(西暦1341年)、足利尊氏将軍が、天龍寺の夢慈国師にお願いして、衣笠山の南麓に創建されたのが、この
等持院であります。義満・義政両将軍のような金閣・銀閣で有名な人達が、全力を尽して立派にされた禅宗十刹の筆頭
寺院であり、更に、尊氏・義詮(よしあきら)将軍当時の幕府の地の近くにあった等持寺もこちらに移されて、足利将軍家
歴代の菩提所となりました。
応仁の乱などの戦乱に見舞われましたが、豊太閤も秀頼に建て直させたほど、この寺を重んじられており、その後も移り
変わりはありましたが、等持院は数度の災害にあいながらも、足利十五代、二三○余年の歴史を語るだけの貴重な文化
財を、今なお充分に保存しております。 元天龍寺管長関牧扇筆による祖師像
方丈南庭園と勅使門
現方丈は1616年に福島正則が妙心寺海福院から移設したもので、襖絵は狩野興以の作
です。
「霊光殿」は、尊氏公が日頃念持仏として信仰された地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊として中央に、禅宗の祖師達磨大師
と、等持院の開山夢窓国師の像を左右にまつるところである。また、両側に足利歴代の将軍像(義量と義栄の像を欠く)が
徳川家康と共に安置されている。
方丈と霊光殿に架かる橋
足利尊氏将軍のお墓
芙蓉池
書院内部のお茶席
庭園は池泉回遊式になっておりますので、書院から履物を履き庭園におります。
茶室 清漣亭 方丈の北側、書院の東にあたる庭園の小高い丘には、茶室『清漣亭』がひっそりとたたずんでおります。
茶道に興味を持ち、室町文化の発展に貢献した八代将軍足利義政公が建設いたしました。
建設当時は、東側(右手)の茶室のみ建てられ、左手は後に建て増しされたものと説明されており、清漣亭とは東側の
茶室の名称とあります。
茶室入り口にある、手水鉢は司馬温公型と呼ばれております。司馬温公型手水鉢とは、縁がでこぼこし、凹凸が激しい
石に水穴をあけたものだそうです。
清漣亭の前にある等持院型と呼ばれる燈籠
清漣亭から東に丘を下りてまいりますと、左手に足利歴代将軍の十三重の遺髪塔があります。
華やかな四季折々の草花に彩られた方丈北庭園から東の庭園の林泉は芙蓉池と呼ばれ、池の形が心の一字をかた
どったように見えることから心字池と呼ばれることもあります。
等持院の説明書によりますと、よく、池の周辺をたどる人たちは、廻遊式庭園という名を用いますが、天龍寺の曹源池
でも苔寺の黄金池でも、この芙蓉池の庭でも、それぞれの池は仏菩薩の逍遙(しょうよう)せられるところであって、
(「逍遙 」には、散歩あるいはそぞろ歩く、などの意味があります)われわれの廻遊観賞のために国師が構想築造された
のではなかった筈で、これを逍遙式庭園と呼ぶのが至当である。とあります。
左手の建物は、方丈東側の霊光殿の裏側になります。
等持院は金閣寺と龍安寺の間にあり立命館大学の南側に位置しております。徒歩であれば龍安寺から向かわれるのが
一番近いです。電車は京福電鉄に等持院駅があります。
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