今日は比較的、というか昨日に比べれば寒くなかったかな?
昨日というか、夕べは遅かったというのは早かったというのか・・真夜中のご帰還。お友達のお通夜に行ってきたからだ。
久しぶりに会うお仲間なんかもいたから、帰りにお話が弾んでしまい、気がつけば・・という時間。昔の若かったころは全然平気だったけど・・いまじゃ、珍しい時間になってしまい、kおばちゃんの車で皆さんを送り届けた。
そのおしゃべりの中に、昨日のお通夜の彼がいないのがとっても不思議で・・まだ実感がわかない。
最後に1ヶ月くらい前に一緒にオペラを見に行ったというお仲間が『もう見にこれないな~』と彼がいったので『そんなこと言わないでくださいよ』といったんだけど、まさかこんなことになるなんて・・と言っていた。人生長いようでやっぱり短いんだとつくづく実感した。またいつかいしょにおしゃべりしたいと思っているkおばちゃんです。
○7月9日(日)
変な・・いえ、楽しいところにひっかかってしまったkおばちゃん。本日のメインのところにまだたどり着いていない。
向かいながらも魚屋さんにひっかかったり、
お惣菜屋さんにひっかかってみたり・・ちっともまっすぐ進みません。
でもどうにか到着!
下から見上げるとこんな感じなのだが・・なんか可笑しいと思いませんか?この教会。
この教会はノートル・ダム・ド・ラ・メール教会Eglise Notre Dame de la Merという教会。
でも、この教会の説明をするまえに、まず、この町の名前の由来から書いておかないとね。この町サント・マリ・ド・ラ・メールSaintes-Maries-de-la-Merとい名前は、『海の聖マリアたち』とでも言う意味だろうか・・つまりここの町の伝説に基づいている。
それは、紀元前40年ころ、ユダヤ人によって追われたキリストの聖母マリアの妹マリア・ヤコブ、ヨハネの母マリア・サロメ、そしてエチオピア人の従者サラが、食べ物も帆もオールもないただの小船に乗せられて漂流し、神様のお導きでここにたどり着いた・・とい伝説である。(このメンバーにマグダラのマリアも加わっており、彼女はここに到着した後サント・ボームSainte-Baumeの洞窟に移ったという説もある。)
前述の二人のマリアはこの地に葬られ、その墓の上に立てられた礼拝所がこのノートル・ダム・ド・ラ・メール教会の前身。12世紀の建立だそうである。その後、ジャンヌ・ダルクの活躍した100年戦争のとき要塞として改修されたそうである。だかだ、窓がみあたらない。
普通教会というと、その窓は美しいステンドグラスなんかに彩られているとおもうのだが、この教会は・・そんなもの見当たらない。
だから教会の中もこんなに暗い。
そしてこの暗い中で一段と華やかなのなのは
二人のマリア
kおばちゃんにはどっちがどっちわからないけどね・・
でも、この教会でもっとも有名なというか、この町そのものを有名にしいているお方はこの二人のマリア様じゃない。
二人に付いて来たエチオピア人の従者サラ(カリ)Sainte Sara la Kaliである。
彼女は船で流されている途中絶望し、海に飛び込むが、マリア・サロメがまとっていたコートを海に投げ入れると、奇跡でそれが筏となって助かった・・という伝説もある。エチオピア人ということで有色人種であることから、ロマ(ジプシー)の守り神としてあがめられ、彼らはここサント・マリ・ド・ラ・メールを聖地とし、その祭り(5月と10月)には世界各地から大挙してやってくるというはなしである。
そのサラはお堂の地下にその遺骨とともに祭られている。
冒頭の画像はその聖女サラの像(キリスト教では正式には聖人に列せられてないそうである)。この像を年に2回の祭りでは海に担ぎ出すそうである。
この像の脇に『聖骨』もあったようだか、小心者のkおばちゃん覗きませんでした。
このロマの守護聖人『サラ』は マーガレット・スターバードMargaret Starbirdにより『マグダラのマリアと聖杯』The Woman with the Alabaster Jar という本の中にで、マグダラのマリアの子どもとされ、そりが近年大ブームをおこしたダン・ブラウンの推理小説『ダ・ヴィンチ・コード』につながっているというこだ。
うーーんこの町は奥が深い・・と思ったkおばちゃんです。
昨日というか、夕べは遅かったというのは早かったというのか・・真夜中のご帰還。お友達のお通夜に行ってきたからだ。
久しぶりに会うお仲間なんかもいたから、帰りにお話が弾んでしまい、気がつけば・・という時間。昔の若かったころは全然平気だったけど・・いまじゃ、珍しい時間になってしまい、kおばちゃんの車で皆さんを送り届けた。
そのおしゃべりの中に、昨日のお通夜の彼がいないのがとっても不思議で・・まだ実感がわかない。
最後に1ヶ月くらい前に一緒にオペラを見に行ったというお仲間が『もう見にこれないな~』と彼がいったので『そんなこと言わないでくださいよ』といったんだけど、まさかこんなことになるなんて・・と言っていた。人生長いようでやっぱり短いんだとつくづく実感した。またいつかいしょにおしゃべりしたいと思っているkおばちゃんです。
○7月9日(日)
変な・・いえ、楽しいところにひっかかってしまったkおばちゃん。本日のメインのところにまだたどり着いていない。
向かいながらも魚屋さんにひっかかったり、
お惣菜屋さんにひっかかってみたり・・ちっともまっすぐ進みません。
でもどうにか到着!
下から見上げるとこんな感じなのだが・・なんか可笑しいと思いませんか?この教会。
この教会はノートル・ダム・ド・ラ・メール教会Eglise Notre Dame de la Merという教会。
でも、この教会の説明をするまえに、まず、この町の名前の由来から書いておかないとね。この町サント・マリ・ド・ラ・メールSaintes-Maries-de-la-Merとい名前は、『海の聖マリアたち』とでも言う意味だろうか・・つまりここの町の伝説に基づいている。
それは、紀元前40年ころ、ユダヤ人によって追われたキリストの聖母マリアの妹マリア・ヤコブ、ヨハネの母マリア・サロメ、そしてエチオピア人の従者サラが、食べ物も帆もオールもないただの小船に乗せられて漂流し、神様のお導きでここにたどり着いた・・とい伝説である。(このメンバーにマグダラのマリアも加わっており、彼女はここに到着した後サント・ボームSainte-Baumeの洞窟に移ったという説もある。)
前述の二人のマリアはこの地に葬られ、その墓の上に立てられた礼拝所がこのノートル・ダム・ド・ラ・メール教会の前身。12世紀の建立だそうである。その後、ジャンヌ・ダルクの活躍した100年戦争のとき要塞として改修されたそうである。だかだ、窓がみあたらない。
普通教会というと、その窓は美しいステンドグラスなんかに彩られているとおもうのだが、この教会は・・そんなもの見当たらない。
だから教会の中もこんなに暗い。
そしてこの暗い中で一段と華やかなのなのは
二人のマリア
kおばちゃんにはどっちがどっちわからないけどね・・
でも、この教会でもっとも有名なというか、この町そのものを有名にしいているお方はこの二人のマリア様じゃない。
二人に付いて来たエチオピア人の従者サラ(カリ)Sainte Sara la Kaliである。
彼女は船で流されている途中絶望し、海に飛び込むが、マリア・サロメがまとっていたコートを海に投げ入れると、奇跡でそれが筏となって助かった・・という伝説もある。エチオピア人ということで有色人種であることから、ロマ(ジプシー)の守り神としてあがめられ、彼らはここサント・マリ・ド・ラ・メールを聖地とし、その祭り(5月と10月)には世界各地から大挙してやってくるというはなしである。
そのサラはお堂の地下にその遺骨とともに祭られている。
冒頭の画像はその聖女サラの像(キリスト教では正式には聖人に列せられてないそうである)。この像を年に2回の祭りでは海に担ぎ出すそうである。
この像の脇に『聖骨』もあったようだか、小心者のkおばちゃん覗きませんでした。
このロマの守護聖人『サラ』は マーガレット・スターバードMargaret Starbirdにより『マグダラのマリアと聖杯』The Woman with the Alabaster Jar という本の中にで、マグダラのマリアの子どもとされ、そりが近年大ブームをおこしたダン・ブラウンの推理小説『ダ・ヴィンチ・コード』につながっているというこだ。
うーーんこの町は奥が深い・・と思ったkおばちゃんです。
こうやって読むと、奥が深いなーと興味を持ちますが、本を読んだときは、奥が深すぎて、逆に関心がもてませんでした。何故なのか、私にもよく分かりませんけど。
サラに対するロマ(ジプシー)の信仰の形も、全然理解で来てません。なにが彼らをひきつけるのか・・ただ肌のいろだけなのか・・