FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

小論文の書き方(1)

2012年11月22日 | 何かの足しになれば

小論文なタイプにはさまざまあるので、今回は基本系のタイプの書き方を説明します。小論文は「自分の考えを書く」ためのものです。作文との違いは、作文は事実や感想を書き連ねる」ものだということです。小学生の作文を思い起こしてくれればわかります。またその自分の考えは一つだけ書くことも、小論文を書く上で大切なポイントです。これは小論文のルールと言ってもよいでしょう。小論文は「段落ごとの役割」を明確にすれば簡単にかけます。さらに「ひとつの文の役割を一つにする」ことが大切です。この2つのポイントに従えば、自分が今何を書いているのかを見失うことがなくなります。

 (1)第1段落の役割・・・「AはBである。」という形で書き出します。Bには「自分の考え」を入れます。ここで大切なことは「~である」という形で書く事です。たととえば、「IT産業の発達には目覚しいものがある。」つまりA=IT産業の発達、(B)は「目覚しいものがある」ですが、この(B)は(自分の考え)ではなく、状況や実態を示したいるだけです。「めざましいものである」とは言いません。「~である。」という文末表現にするだけで自然と(B)を自分の考えで表現できるようになります。

 また、「AはBである。」のBに修飾語Cをつけてはいけません。AやBを強調するためにつける修飾語Cをつけると、そちらも強調されてしまうので、BとCのどちらを言いたいのか?はっきりしなくなります。たとえば、「IT産業の発達には警戒すべきである。」という文に「IT産業の発達には各地の文化を守るために(修飾語C)警戒すべきである。」とすると、(修飾語C)についても筆者の思いが多く含まれることになることがわかります。つまり、そこには「私は各地の文化を守りたいのだ」というメッセージが含まれてしまうのです。小論文は「自分の考えは一つだけ」書くのだという点も重要なポイントです。

次に、「AがBである。」に続けて、「なぜならDだからである。」と書きつないでいきます。つまり自分の考えAに(理由D)をつけます。この部分は次に記述していくことになる第2段落を引き出すためのものです。(自分の考えB)とだ思う(理由D)を書くだけなので、ここではその根拠などは不要です。「IT産業の発達には警戒すべきである。なぜなら、各地に存在する文化や伝統を破壊するおそれがある(理由D)からである。」と書いていきます。

(2)第2段落の役割・・・理由を説明する。第3段落では(理由D)を説明します。ここで注意しなければいけないのは、(自分の考えB)を説明してはいけないという点です。(自分の考えB)を説明すると(理由D)と重複し、論が前に進みません。つまり「各地に存在する文化や伝統を破壊するおそれがある」という点について説明を加えるのです。

「説明する」とは「わかりやすくする」ことです。そのため、説明を加える方法には2つあります。①「例えば~のようなことがある。」といった書き方で、具体的な例を挙げることで詳しく、わかりやすくする方法です。その際、(理由D)のなかのカギになっている言葉を「例えば~。」と考えてみると良いでしょう。いくらでも思いつくはずです。小論文で求められている字数を考えながら具体例を2~3あげれば良いでしょう。例文で考えてみると、(理由D)のキーワードは「文化や伝統が破壊される」でしょう。そこで「文化や伝統」が失われている例を「例えば~」と考えていきます。「例えば、日本には漢字という独自の文化がある。しかし近年PCの発達などにより漢字が書けない大人が増えている。」といったようになるでしょう。

ここで注意したいのは具体例の思い出し方です。「文化」を「独自の文化」という言葉に「置き換え」ている点です。そしてさらにその「独自の文化」の具体例を探していくと「漢字」に行き着いたわけです。このように具体例を考えるとき、「置き換え」のテクニックは有効になります。

②もう一つの方法は、「言い換え」です。つまり、理由Dを立場を変えて言い換えてみせるわけです。この「言い換え」のパターンは、「立場を変えて言い換える」・「視点を変えて言い換える」・「逆の立場で言い換える」・「反対意見に立って言い換える」などがあります。たとえば、理由D「各地に存在する文化や伝統を破壊するおそれがある」という部分に対し、「たしかに、IT産業の発達によって世界中の知識や情報をどこにいても手に入れることができる。」(言い換えF)などと書きつなげていきます。さらに文章を長くする場合は、この(言い換えF)について「例えば~」というように①の方法で説明をしていけば良いでしょう。そして「しかし、Fである。」(振り戻しF)によって、自分の(理由D)を(言い換えE)を否定する形で示し、元の視点に戻せばよいでしょう。逆の立場からの(言い換えE)を踏まえて、それもわかるけど、しかし私の立場は(振り戻しF)です、ということで説得力が増します。その際、(言い換えE)と(振り戻しF)とは重複する表現が出てきますが、重複は省いて記述していきます。例えば「しかし、それらの知識や情報は画一的・均質的なものでしかなく、地域の独自な文化や伝統は一度失われると二度と手に入れることはできないものである。」

以上、例文をまとめておくと「IT産業の発達には警戒すべきである(自分の考えB)。なぜなら、各地に存在する文化や伝統を破壊するおそれがあるから(理由D)である。たしかに、IT産業の発達によって世界中の知識や情報をどこにいても手に入れることができる(言い換えE)。しかし、それらの知識や情報は画一的・均質的なものでしかなく、地域の独自な文化や伝統は一度失われると二度と手に入れることはできないものである(振り戻しF)。」短い文章ですが、自分の考えがよく説明され説得力がある文章になっていると思います。この段階まで書ければ、400字~600字程度の小論文にはすぐ引き伸ばすことができます。

 

 


戦後史(7)ソ連崩壊と冷戦の終結

2012年11月22日 | トリオDE世界史

(1)ゴルバチョフ �書記長に抜擢した人物�書記長就任の年�変化の原因
�チェルネンコ
�1985年
�チェルノブイリ原発事故
(2)ゴルバチョフ �改革解放�情報公開�外交政策
�ペレストロイカ
�グラスノスチ
�新思考外交
(3)ゴルバチョフの年代 �登場�チェルノブイリ原発事故�ペレストロイカ
�1985年
�1986年
�1987年
(4)新思考外交 �否定した政策�宣言を出した都市�内容
�ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)
�ベオグラード宣言
�東欧の民主化を容認
(5)1989年 �ドイツ�会談�民主化
�ベルリンの壁崩壊
�マルタ会談
�東欧民主化(ポーランド・チェコ・ルーマニア)
(6)ベルリンの壁 �建設の年�崩壊の年月日�意義
�1961年
�1989年11月9日
�ヤルタ体制の崩壊
(7)ベルリンの壁の人物 �西独首相�西独大統領�東独独裁者
�コール首相
�ワイツゼッカー大統領
�ホーネッカー
(8)ドイツ統合 �年月日�西独首相�西独大統領
�1990年10月3日
�コール首相
�ワイツゼッカー大統領
(9)マルタ会談 �年�アメリカ大統領�ソ連第1書記
�1989年
�ブッシュ大統領
�ゴルバチョフ第1書記
(10)89年の東欧の民主化 �ポーランド�ハンガリー�チェコ
�連帯(自主管理労組)の合法化
�民主フォーラム
�ビロード革命
(11)ソ連崩壊までの年代 �共産党1党独裁放棄�共産党解散�ソ連邦解体
�1990年
�1991年8月
�1991年12月
(12)保守派クーデタ �年月�軟禁された人物�解決した人物
�1991年8月
�ゴルバチョフ書記長
�エリツィン・ロシア共和国大統領
(13)保守派クーデタの影響 �独立�実権�共産党
�バルト3国独立宣言
�ゴルバチョフからエリツィンに移行
�共産党解散
(14)1991年の出来事3つ
�バルト3国独立
�CIS(独立国家共同体)成立
�ソ連邦解体
(15)バルト3国
�エストニア
�ラトヴィア
�リトアニア
(16)参加共和国数 �ソ連邦�ロシア連邦�CIS
�15
�18
�11
(17)ソ連共産党解散 �年�原因�影響
�1991年8月
�共産党保守派のクーデタに対するゴルバチョフがとった報復
�ゴルバチョフがソ連邦大統領に就任


戦後史(9)東欧の現代史

2012年11月22日 | トリオDE世界史

(1)チェコ・クーデタ �年�失脚した大統領�親ソの大統領
�1948年
�ベネシュ
�ゴットヴァルト
(2)1956年 �ソ連書記長�ハンガリー動乱指導者�ポズナニ暴動指導者
�フルシチョフ(スターリン批判)
�ナジ=イムレ(処刑死)
�ゴムルカ(自主解決)
(3)プラハの春 �年�原因�結果
�1968年
�デタント(緊張緩和)
�WTO(ワルシャワ条約機構)軍が介入して制圧
(4)プラハの春 �大統領�第1書記�親ソ
�ズボボダ
�ドプチェク
�カダル
(5)チェコの民主化の歩 �1968年�1977年�1989年
�プラハの春(2000語宣言)
�憲章77
�ビロード革命
(6)憲章77 �中心人物�目的�原因
�劇作家ハベル
�人権擁護
�70年代の経済危機
(7)1989年のチェコ �革命�政党�都市
�ビロード革命
�市民フォーラム
�プラハ
(8)ビロード革命 �政党�大統領�議長
�市民フォーラム
�ハベル
�ドプチェク
(9)ポーランド民主化の歩 �1956年�1980年�1989年
�ポズナニ暴動
�連帯(自主管理労組)結成
�東欧発の自由選挙
(10)連帯 �正式名称�指導者�政府の対応
�自主管理労組
�ワレサ議長
�ヤルゼルスキが戒厳令で制圧
(11)連帯の歩 �結成の年�非合法化の年�合法化され政権獲得の年
�1980年
�1981年
�1989年
(12)1989年のポーランド �選挙�連帯�大統領
�東欧初の自由選挙実施
�合法化され選挙で圧勝
�ワレサ
(13)東欧民主化の各国政党 �ポーランド�チェコ�ハンガリー
�連帯(自主管理労組)
�市民フォーラム
�民主フォーラム
(14)東欧民主化の指導者 �ポーランド�チェコ�ハンガリー
�ワレサ
�ハベル
�アルタン
 


戦後史(4)平和共存1955~68年

2012年11月15日 | トリオDE世界史

(1)スターリン批判 �年�人物�大会
�1956年
�フルシチョフ
�ソ連共産党第20回大会
(2)ソ連共産党第20回大会 �スターリン批判�平和共存路線�雪解け
�フルシチョフ(第1書記)
�ミコヤン
�エレンブルク(ソ連の新聞記者)
(3)スターリンの死 �年�影響2つ
�1953年
�コミンフォルム解散
�フルシチョフがスターリン批判
(4)スターリン批判の影響 1956年の反ソ暴動3つ
�ポズナニ暴動
�ハンガリー動乱
�東独からの亡命
(5)スターリン批判の影響 �1959年�1969年の事件�事件のソ連名
�中ソ論争
�珍宝島事件
�ダマンスキー島
(6)ジュネーブ4巨頭会談 �年�目的�きっかけ
�1955年
�ベルリン分断問題の処理
�インドシナ戦争の休戦協定のために集まっていた
(7)ジュネーブ4巨頭会談 �米�ソ連�英�仏
�アイゼンハウアー大統領
�ブルがー人首相
�イーデン首相
�フォール首相
(8)ポズナニ暴動 �国名�第1書記�ソ連の行動
�ポーランド
�ゴムルカ第1書記
�介入せず
(9)ハンガリー暴動 �ハンガリーの指導者�ソ連の行動�指導者の結末
�ナジ=イムレ
�ソ連軍が介入
�ナジ=イムレは処刑
(10)キューバ革命 �年�指導者�追放された親米政権
�1959年
�カストロ
�親米バティスタ政権
(11)キューバ �1901年�1903年�1933年
�プラット修正
�アメリカの保護国化
�Fルーズベルトの善隣外交で独立。親米バティスタ政権成立
(12)キューバ重要年代 �1959年�1961年�1962年
�キューバ革命
�カストロが社会主義化
�ソ連がミサイル基地建設
(13)キューバ危機の人物 �ソ連�アメリカ�キューバ
�フルシチョフ書記長
�ケネディ大統領
�カストロ議長
(14)ケネディとフルシチョフ �1961年�1962年1963年
�ソ連がベルリンの壁を建設
�キューバ危機
�部分的核実験停止条約の締結
(15)キューバ危機の年代 �1959年�1961年�1962年
�キューバ革命
�ビックス湾事件
�キューバ危機
(16)部分的核実験停止条約 �締結年�除外された核実験�批准しなかった国
�1963年
�地下核実験
�フランスと中国
(17)緊張緩和 �別の言い方�きっかけ�原因
�デタント
�キューバ危機
�核戦争の脅威
(18)デタント �1963年�1968年�不参加の国
�部分的核実験停止条約
�核拡散防止条約
�フランスと中国
(19)プラハの春 �年�スローガン�宣言
�1968年
�人間の顔をした社会主義
�2000語宣言
(20)プラハの春の人物 �追放された人物�民主化賛成大統領�賛成第1書記
�ノボトニー
�ズボボダ
�ドプチェク
(21)プラハの春 �ソ連の対応�ソ連の主張�その後の親ソ政権
�WTO(ワルシャワ条約機構)軍で介入
�ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)
�フサーク


戦後史(3)東西陣営の形成�

2012年11月15日 | トリオDE世界史

(1)鉄のカーテン �南北の都市�南北の海�意味
�シュテッテンからトリエステまで
�バルト海からアドリア海まで
�冷戦の開始を予言した
(2)冷戦の開始 �人物�年�演説した都市
�チャーチル
�1946年
�フルトン
(3)1947年 �防共政策�経済支援策�共産党情報局
�トルーマン・ドクトリン
�マーシャル・プラン
�コミンフォルム
(4)トルーマン・ドクトリン �年�防共の対象となった2ヶ国�政策
�1947年
�ギリシアとトルコ
�封じ込め政策
(5)マーシャル・プラン �受入れ失敗国�東側で受入れ国�西欧の受皿機構
�チェコスロヴァキア
�ユーゴスラヴィア
�OEEC
(6)チェコのマーシャル・プラン受入れ �受入れ失敗の大統領�結果�影響
�ベネシュ大統領
�チェコ・クーデタが発生社会主義国化
�アメリカが西独で通貨改革を強行
(7)チェコ・クーデタ �年�追放された大統領�独裁者
�1948年
�ベネシュ大統領
�ゴットヴァルト大統領
(8)ユーゴ受け入れ �大統領�結果�ユーゴの特殊事情
�チトー
�コミンフォルムから除名された
�チトーがユーゴを自力解放した
(9)コミンフォルム �成立年�西側で参加した共産党�本部
�1947年
�フランスとイタリアの共産党
�ベオグラードから48年にブカレストへ
(10)ベルリン封鎖 �原因1�原因2�原因3
�マーシャル・プラン
�チェコ・クーデタ
�西独通貨改革
(11)ベルリン封鎖 �年�ソ連の行動�アメリカの対応
�1948~49年
�西ベルリンをソ連軍が封鎖
�B52で毎日生活物資を1年間空輸
(12)ベルリン封鎖の結果 �ドイツ�アメリカ�ソ連
�東西ドイツに分裂して独立
�NATOを結成
�コメコン(COMECOM)を結成
(13)NATO �正式名称�成立年�西独が加盟した年
�北大西洋条約機構
�1949年
�1955年
(14)西独 �正式名称�初代首相�建国時の政権政党
�ドイツ連邦共和国
�アデナウアー
�キリスト教民主同盟
(15)東独 �正式名称�独裁者�共産党
�ドイツ民主共和国
�グロテヴォール
�社会統一党
(16)1955年 �西独�ソ連�オーストリア
�西独のNATO加盟
�WTO結成
�オーストリア独立
(17)WTO �正式名称�結成年�目的
�ワルシャワ条約機構
�1955年
�ソ連を中心とする軍事同盟
(18)冷戦期のソ連 �ソ連共産党による支配�経済支援機構�軍事機構
�コミンフォルム
�COMECOM
�WTO



ハル=ノ-ト

2012年11月15日 | 高3用 授業内容をもう一度

 アメリカは【1941】年11月に日本に対して「【ハル・ノート】」を提示。これは対日最後通牒であった。内容は、中国においては1931年以前状態に戻す、仏領インドシナからの撤退、3国軍事同盟の破棄といったもので、日本には到底受け入れがたい内容であった。しかし、日本は仏印進駐いらい「【ABCD包囲網】」の中で【石油】を含む経済制裁を受けており、石油の備蓄量は1年ほどしか残っていなかった。そのため、当時の日本の指導者たちは、石油の備蓄があるうちに戦争に打って出るという判断下した。

★ハル・ノートのチェック・ポイント
�アメリカが提示した時期は?
=1941年11月
�内容は?
=満州事変以前の状態に戻す
=仏印および中国から撤退する
=3国軍事同盟を破棄する
�朝鮮半島の扱いは?
=現状のまま日本の支配下に置く


大戦間史(6)日本の大陸進出と太平洋戦争

2012年11月15日 | トリオDE世界史

(1)3つの戦争 �1931年から�1937年から�1941年から
�満州事変
�日華事変(日中戦争)
�太平洋戦争
(2)満州事変 �きっかけの事件�場所�結果
�柳条湖事件
�奉天付近
�満州国建国
(3)柳条湖事件 �年�内容�国際社会の対応
�1931年
�関東軍による満鉄爆破事件
�リットン調査団
(4)日本の満州侵略 �1928年�1931年�1932年
�張作霖爆殺事件
�柳条湖事件
�満州国成立
(5)満州国 �成立年�皇帝�結果
�1932年
�愛新覚羅溥儀
�日本が国際連合脱退
(6)第1次国共合作 �目的�年�共産党員の立場
�中国統一のための北伐
�1924年
�党籍を残したまま国民党に加わる
(7)第2次国共合作 �目的�年�共産党員の立場
�抗日民族統一戦線
�1937年
�国民党と対等の立場
(8)中国の人民戦線 �1935年�1936年�1937年
�コミンテルン第7回大会
�8.1宣言
�第2次国共合作
(9)1937年 �事件�場所�戦争
�盧溝橋事件
�北京郊外
�日華事変
(10)三光作戦
�焼光(焼き尽くす)
�殺光(殺しつくす)
�槍光(奪いつくす)
(11)1940年 �フランスの状況�日本の侵攻�アメリカの対応
�パリ陥落
�仏印進駐
�ABCDライン
(12)ABCDライン �年�参加国4つ�制裁品目
�1940年
�米英中国蘭
�石油を含む経済制裁
(13)1941年 �日ソ関係�日米関係�12月8日
�日ソ中立条約
�ハル・ノート
�真珠湾攻撃


戦後史(3)第2次世界大戦�大戦中の会談

2012年11月15日 | トリオDE世界史

(1)大西洋憲章 �年�参加者�内容
�1941年
�米Fルーズベルト、英チャーチル
�戦後の国際平和機構創設
(2)カイロ会談 �年�参加者�内容
�1943年
�米ルーズベルト、英チャーチル、中国蒋介石
�朝鮮の独立
(3)テヘラン会談 �年�参加者�内容
�1943年
�米ルーズベルト、英チャーチル、ソ連スターリン
�第2戦線の結成
(4)ヤルタ会談 �年�参加者�内容
�1945年
�米ルーズベルト、英チャーチル、ソ連スターリン
�ドイツの分割統治
(5)ポツダム会談 �米ソ参加者�英参加者�内容
�米トルーマン、ソ連スターリン
�チャーチル途中からアトリー
�日本の無条件降伏
(6)重要な会談 �朝鮮独立�第2戦線の結成�戦後のドイツ処理
�カイロ会談
�テヘラン会談
�ヤルタ会談
(7)国際連合 �最初の構想�国連憲章草案作成�国連憲章草案採択
�大西洋会談
�ダンバートン・オークス会談
�サンフランシスコ会議


戦後史(2)第2次世界大戦�太平洋戦争

2012年11月15日 | トリオDE世界史

(1)太平洋戦争前後の経過 �1940年�1941年�1942年
�仏印進駐
�真珠湾攻撃
�ミッドウェイ海戦
(2)東南アジアの抗日運動指導者 �ヴェトナム�ビルマ�フィリピン
�ホー=チー=ミン
�アウン=サン
�タルク
(3)東南アジアの抗日運動組織 �ヴェトナム�ビルマ�フィリピン
�ヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)
�反ファシスト人民自由連盟
�フクバラハップ(フク団)
(4)対日会談 �無条件降伏・朝鮮独立�ソ連の対日参戦�無条件降伏を確認
�カイロ会談
�ヤルタ会談
�ポツダム会談
(5)カイロ会談参加者 �米�英�中国
�ルーズベルト
�チャーチル
�蒋介石
(6)1945年8月 �8月6日�8月8日�8月9日
�広島原爆投下
�ソ連参戦
�長崎原爆投下


戦後史 日本の大陸進出と太平洋戦争

2012年11月11日 | トリオDE世界史

(1)3つの戦争 ①1931年から②1937年から③1941年から
①満州事変
②日華事変(日中戦争)
③太平洋戦争
(2)満州事変 ①きっかけの事件②場所③結果
①柳条湖事件
②奉天付近
③満州国建国
(3)柳条湖事件 ①年②内容③国際社会の対応
①1931年
②関東軍による満鉄爆破事件
③リットン調査団
(4)日本の満州侵略 ①1928年②1931年③1932年
①張作霖爆殺事件
②柳条湖事件
③満州国成立
(5)満州国 ①成立②皇帝③結果
①1932年
②愛新覚羅溥儀
③日本が国際連合脱退
(6)第1次国共合作 ①目的②年③共産党員の立場
①中国統一のための北伐
②1924年
③党籍を残したまま国民党に加わる
(7)第2次国共合作 ①目的②年③共産党員の立場
①抗日民族統一戦線
②1937年
③国民党と対等の立場
(8)中国の人民戦線 ①1935年②1936年③1937年
①コミンテルン第7回大会
②8.1宣言
③第2次国共合作
(9)1937年 ①事件②場所③戦争
①盧溝橋事件
②北京郊外
③日華事変

(10)三光作戦
①焼光(焼き尽くす)
②殺光(殺しつくす)
③槍光(奪いつくす)
(11)1940年 ①フランスの状況②日本の侵攻③アメリカの対応
①パリ陥落
②仏印進駐
③ABCDライン
(12)ABCDライン ①年②参加国4つ③制裁品目
①1940年
②米英中国蘭
③石油を含む経済制裁
(13)1941年 ①日ソ関係②日米関係③12月8日
①日ソ中立条約
②ハル・ノート
③真珠湾攻撃


 


大人に近づく瞬間

2012年11月11日 | 何かの足しになれば

部活動をやっていると「自分ひとり」という世界から「縦横の関係」という世界への広がりを自覚できる機会を得ます。横との関係とは「仲間意識」だあったり「一体感」です。またより重要なのは縦との関係です。縦との関係とは「先輩のために」とか「後輩のために」といったこと。自分の行動が先輩や後輩に与える影響、自分ががんばることで後輩たちがその苦労を少しでも和らげることができるという配慮。このように「自分」という存在が何かを通じて受け継がれていくという体験はなかなか中学生や高校生ではできるものではないでしょう。
 たとえば、受験勉強と部活動との両立に自分が苦しんでいるとします。自分が部活動を引退した後、受験勉強でよい結果を残すことが、後輩のためにしてあげられることでしょう。このように今の自分が何らかの形で「残り香」を残していく。大人に一歩近づく瞬間のように思います。


大戦間史のヨーロッパ

2012年11月08日 | 年代暗記法

1919年 ヴェルサイユ条約・・・行く行く(1919) ヴェルサイユ

1921年 ロンドン(賠償金)会議・・・工夫の(921) 結果、ロンドン会議

1923年 ルール出兵・・・ふみ(32) 倒しは許さないルール出兵

1924年 ドーズ案・・・(24) く結んだドーズ案

1925年 ロカルノ条約・・・ニコ(25) ニコ安全、ロカルノ条約

1926年 ドイツ国際連盟加盟・・・フム(26) フム納得ドイツ加盟

1928年 ブリアン・ケロッグ不戦条約・・・ふや(28) けたケロッグ不戦条約

1929年 大恐慌・・・行き着く(1929) 先は大恐慌

1931年 ウェストミンスター憲章・・・くさい(931) セリフの「王冠への忠誠」

1932年 オタワ会議・・・ミニ(32) マムな貿易、オタワ会議

1933年 ヒトラー政権成立・・・散々(33) 迷惑なヒトラー政権

1935年 ドイツ再軍備宣言・・・見事(35) な再軍備

1935年 第7回コミンテルン大会・・・さー来(35) いファシズム人民戦線

1936年 レオン=ブルム人民戦線内閣成立・・・魅力(36) 的なレオン=ブルム

1936年 ラインラント進駐・・・草むす(936) ラインラントにドイツ進駐

1938年 ミュンヘン会談・・・戦は(1938 嫌だとミュンヘン会談

1939年 独ソ不可侵条約・・・ポーランドを割く(39) 独ソ不可侵条約

1940年 パリ陥落・・・死を(40) 待つパリ陥落

 


プラトン的な自分とニーチェ的な自分

2012年11月08日 | 何かの足しになれば

「存在」について対照的な志向を示した二人の巨人の話です。倫理や世界史でプラトンの「イデア」について学習します。「イデア」とは不変の真理のこと。たとえば「机」を紙に書いてみてください。多種多様な「机」が存在するにもかかわらず、誰もが「机」をイメージできます。その誰もが共通して持っている「机」こそが、机のイデアです。したがって、そのイデアは個別に存在する机の中に含まれていることになります。

つまりプラトンが言う「存在」とは、イデアすなわち「不変の真理」のこと。誰かに出会ってその人の影響を受けても、決して変わることのない自分が存在する。それがプラトンのいう「存在」です。決して変わることのない自分がいる。そうプラトンは説くのです。


 一方、19世紀に登場したニーチェは、「変化することによって存在する」といいます。古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉がニーチェを理解するヒントになるのですが、それは「人間は決して同じ川に入ることはできない」という有名な言葉です。一回入った川は全体としてみれば変わってないように思えますが、そこに流れている川の水は、一回目に入った水ではない。なかなか示唆に富んだ言葉です。

ニーチェは存在が立証できるのは、その存在が常に新しく変化しているからだ、というわけです。彼は、そのように不断の変化を続けている人間を「超人」といいました。つまり「過去の自分」を越えていくことを続けることで、自分の存在を感じる人間のことです。過去の自分、現在の自分、未来の自分、これらは刻々と時間とともに変化している。そうであるからこそ人間は存在しているといえるのだ、とニーチェは言うわけです。誰かと出会ったときに、その人から受けた影響を自分のものにして、新しい自分が存在することを感じる。そんな存在の仕方がニーチェ的です。


あなたはプラトン的に存在しますか?それともニーチェ的ですか?


模試の結果から今後の学習について

2012年11月08日 | 進路指導

 河合塾第2回記述・S台ベネッセ共催模試の分析をしました。
①上位層60以上と中堅層55以上では、とくに「時間的・面的広がり」がある問題で差が出ている。このことはおそらく入試問題を解いた経験値の差であろう。「教科書のテーマ」ごとに分かれた問題集ではなく、広範囲のテーマを含むセンター試験の問題やマーチ以上の大学の入試問題を解くこと。
②偏差値55と50の差は、基礎知識の定着の差。関西方面の大学の入試問題は、範囲が狭くテーマが絞られた問題が多いので、それらを解いて知識の確認をするとともに、Forza赤本復習編を使って用語の整理と定着を図ること。
③偏差値50と45の差は文化史の学習量の差。したがって、ギリシア・ローマ文化史から絶対王政の文化史、イラン・インド文化史、イスラム文化史、中国文化史をForza赤本復習編でやること。忘れてもいいから一度覚えること。文化史以外では偏差値50レベルとの差がないので、これが終われば、③で書かれている内容に進める。


 以上のことから、偏差値45から55までは、それほど労力をかけなくても、一気に成績を上げることができる。55のレベルから60以上いしていくには、問題を多く解くことを要するため、多少時間がかかる。


もしの判定結果と今の自分

2012年11月08日 | 進路指導

高校3年生は、模試の返却もひと段落して、担任との面談が本格化している時期だと思います。志望大学の決定に、模試の判定をある程度基準にしているでしょう。しかし、まず思い出してほしいのは、その模試はいつ受験したものか?ということです。1ヶ月以上前の模試の判定ですから、その間の1ヶ月間で自分がどれだけのことをやれたか?によって、判定の結果と今の自分とが大きく違っているはずです。
 したがって、この時期に大切にしたいことは、どれだけのことをやってきたか、という自覚をもてるようにすごすことです。最近の生徒諸君をみていると、受験期を迎えて盛り上がってきた感じを受けません。あと1ヶ月間は「やったもの勝ち」です。過去の模試の判定で自分の実力を考えることも必要ですが、それ以上に「自分はやってきた」という自覚をもてるようにしたいものです。