ここ1年あまり、なぜ自分が漢字の勉強を続けたいのか、時に真剣に考えているのですが、その過程で思い出したうちのひとつが、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(新潮文庫 S26/11/30発行、H28/2/5 111刷改版)です。『デミアン』は、しろねこが高校生のころ読んで、その一部分、殆どある場面だけが記憶に残っていたのですが、最近頻りとそれが思い出されるようになってきたので、このたび幾日かかけて読み返してみたのです。
そのワンシーンというのは、主人公のエーミール・シンクレールが、オルガン奏者のピストーリウスの自宅で横たわり、暖炉で燃える炎を長いあいだ凝視するという図で、ピストーリウスが「哲学の練習」と称して、シンクレールに与えた授業でした。
表題のデミアンのことより、その仲介ともいえるこちらの場面だけが記憶に残っていたのはなんとも奇妙なことでしたが、そこでシンクレールが意識的に「自然の怪異な形をながめ」ながらピストーリウスとの時間を過ごすことを経て、「自己発見の進捗、自分の夢や思想や予感への信頼の増大、自己内部の力の自覚の増大」を実感していったという内容を読んで、或いは、その次元にシンクレールが行き着くまでの様々な過程の場面を読んでみて、腑に落ちることがいくつもありました。
そもそも、漢字はその起源をはじめとして、「自然の怪異な形」から生まれてきたものがいくつもあります。極端なことを言えば、数々の漢字を眺めていくと、もとの“炎”に行き着くというわけです。漢字と哲学は切り離せないものですが、その象徴的なシーンともいえる場面がずっと記憶の中にあったのだと思うと、なにか縁を、親愛の情のようなものを感じざるをえません。
また、おしゃべりをすることや、お酒を飲んで放蕩の限りを尽くすことについて、解釈がなされている場面が処々にありますが、これはしろねこの場合は、特に社会人になってからのもやもやしたものに答えをもたらしてくれるところがありました。
しろねこはそれほどお酒が強いわけではないですが、ものを食べないで飲み続けることはしませんし、一気をしても(以前ほどではないですが、職場には一気の名残もあります)ウーロン茶で相殺する理性は残しているので、総合的にかなり飲んでも、残念ながら記憶をなくしたことが未だにありません。今日は飲むかと思って飲んでも、大抵相手が記憶をなくしています。つまり、しろねこは中途半端に放蕩仲間のふりはできても、完全に放蕩に徹してきたわけでもなく、半信半疑で人生を送ってきました。放蕩にどこかで憧れはしても、完全に放蕩に身を委ねられるだけの、自分に対する潔さを持ち合わせていないのかもしれません。
それ以上に時にたちが悪いのはおしゃべりをすることで、きちんとした対話にならないおしゃべりほど、何かを失ったような、身ぐるみ剥がれた気持ちになるものはありません。そのことを『デミアン』では、実によく言い当てていると思います。
喫茶店で漢字のことを勉強していても、手芸をしているときのように誰か見ず知らずの人が脇から話しかけてくるということは、まずありません。余程常連になったお店で店員さんから「いつも勉強されてますよね」と怪しまれる程度です。そのくらい、漢字学習は本来非常に内面的なもので、安易に他者と共有できる世界ではないということを、常々感じています。私たちは最低限、常用漢字と人名用漢字を共通認識のコードとして、学習し合っているのであって、単に読み書きができるより先の次元に漢字を追い求めるのであれば、それは一見、かなり孤独な営みにならざるをえませんし、なって然るべきでもあるのです。『デミアン』では、自身を自分自身へと導く道を見いだすことが繰り返し書かれていますが、しろねこもここ暫く切実にそのことを考えるようになっていました。今回の読書で、自分の漢字とのお付き合いが、自分の一生涯の中でどう関わりうるのか、ひとつの示唆を得たように思います。
ここで、『デミアン』のはしがき(作品冒頭に位置している)の最後にある一節を掲げておきます。
「すべての人間の生活は、自己自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうと努めている。ある人はもうろうと、ある人はより明るく。めいめい力に応じて。だれでもみな、自分の誕生の残りかすを、原始状態の粘液と卵の殻を最後まで背負っている。ついに人間にならず、カエルやトカゲやアリにとどまるものも少なくない。上のほうは人間で、下のほうは魚であるようなものも少なくない。しかし、各人みな、人間に向かっての自然の一投である。われわれすべてのものの出所、すなわち母は共通である。われわれはみんな同じ深淵から出ているのだ。しかし、みんな、その深みからの一つの試みとして一投として、自己の目標に向かって努力している。われわれはたがいに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない。」
そのワンシーンというのは、主人公のエーミール・シンクレールが、オルガン奏者のピストーリウスの自宅で横たわり、暖炉で燃える炎を長いあいだ凝視するという図で、ピストーリウスが「哲学の練習」と称して、シンクレールに与えた授業でした。
表題のデミアンのことより、その仲介ともいえるこちらの場面だけが記憶に残っていたのはなんとも奇妙なことでしたが、そこでシンクレールが意識的に「自然の怪異な形をながめ」ながらピストーリウスとの時間を過ごすことを経て、「自己発見の進捗、自分の夢や思想や予感への信頼の増大、自己内部の力の自覚の増大」を実感していったという内容を読んで、或いは、その次元にシンクレールが行き着くまでの様々な過程の場面を読んでみて、腑に落ちることがいくつもありました。
そもそも、漢字はその起源をはじめとして、「自然の怪異な形」から生まれてきたものがいくつもあります。極端なことを言えば、数々の漢字を眺めていくと、もとの“炎”に行き着くというわけです。漢字と哲学は切り離せないものですが、その象徴的なシーンともいえる場面がずっと記憶の中にあったのだと思うと、なにか縁を、親愛の情のようなものを感じざるをえません。
また、おしゃべりをすることや、お酒を飲んで放蕩の限りを尽くすことについて、解釈がなされている場面が処々にありますが、これはしろねこの場合は、特に社会人になってからのもやもやしたものに答えをもたらしてくれるところがありました。
しろねこはそれほどお酒が強いわけではないですが、ものを食べないで飲み続けることはしませんし、一気をしても(以前ほどではないですが、職場には一気の名残もあります)ウーロン茶で相殺する理性は残しているので、総合的にかなり飲んでも、残念ながら記憶をなくしたことが未だにありません。今日は飲むかと思って飲んでも、大抵相手が記憶をなくしています。つまり、しろねこは中途半端に放蕩仲間のふりはできても、完全に放蕩に徹してきたわけでもなく、半信半疑で人生を送ってきました。放蕩にどこかで憧れはしても、完全に放蕩に身を委ねられるだけの、自分に対する潔さを持ち合わせていないのかもしれません。
それ以上に時にたちが悪いのはおしゃべりをすることで、きちんとした対話にならないおしゃべりほど、何かを失ったような、身ぐるみ剥がれた気持ちになるものはありません。そのことを『デミアン』では、実によく言い当てていると思います。
喫茶店で漢字のことを勉強していても、手芸をしているときのように誰か見ず知らずの人が脇から話しかけてくるということは、まずありません。余程常連になったお店で店員さんから「いつも勉強されてますよね」と怪しまれる程度です。そのくらい、漢字学習は本来非常に内面的なもので、安易に他者と共有できる世界ではないということを、常々感じています。私たちは最低限、常用漢字と人名用漢字を共通認識のコードとして、学習し合っているのであって、単に読み書きができるより先の次元に漢字を追い求めるのであれば、それは一見、かなり孤独な営みにならざるをえませんし、なって然るべきでもあるのです。『デミアン』では、自身を自分自身へと導く道を見いだすことが繰り返し書かれていますが、しろねこもここ暫く切実にそのことを考えるようになっていました。今回の読書で、自分の漢字とのお付き合いが、自分の一生涯の中でどう関わりうるのか、ひとつの示唆を得たように思います。
ここで、『デミアン』のはしがき(作品冒頭に位置している)の最後にある一節を掲げておきます。
「すべての人間の生活は、自己自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうと努めている。ある人はもうろうと、ある人はより明るく。めいめい力に応じて。だれでもみな、自分の誕生の残りかすを、原始状態の粘液と卵の殻を最後まで背負っている。ついに人間にならず、カエルやトカゲやアリにとどまるものも少なくない。上のほうは人間で、下のほうは魚であるようなものも少なくない。しかし、各人みな、人間に向かっての自然の一投である。われわれすべてのものの出所、すなわち母は共通である。われわれはみんな同じ深淵から出ているのだ。しかし、みんな、その深みからの一つの試みとして一投として、自己の目標に向かって努力している。われわれはたがいに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない。」