昨年11月に観た宮城県美術館「東日本大震災復興祈念 奈良・中宮寺の国宝展」の感想を遅ればせながらサクッと。
https://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/exhibition-20201112-s01-01.html
中宮寺は聖徳太子が母である穴穂部間人皇后のために創建したと伝わっている(山岸涼子「日出処の天子」では穴穂部間人媛は厩戸を恐れ冷たかったよなぁ)。鎌倉時代の尼僧信如(比丘尼)による復興を経て、室町時代には尼門跡寺院となっている。
今回の展覧会では中宮寺の仏様たちだけではなく、様々な所蔵品(美術品)も観ることができ、興味深く眺めてしまった。端正な《花御堂》や雅な《花鳥散図襖》、昭和初期の日本画家たちによる《花御堂天井画》板絵など、現在まで続く尼門跡寺院ならではの格式と華やぎを見ることができたと思う。
《花鳥散図襖》江戸時代(18世紀)中宮寺
また、中宮寺の国宝の一つである《天寿国繍帳》のレプリカ(模造:1982年)も展示されていた。
(写真:中宮寺HPから)
《天寿国繍帳》(実物写真)飛鳥時代(7世紀)中宮寺
今回初めて知ったのだが《天寿国繍帳》は聖徳太子の死去を悼んで妃の橘大郎女が作らせたもので、聖徳太子が往生した天寿国(西方極楽浄土)のありさまを刺繡で表した帳(とばり)の意であるようだ。展示されていた模造作品を観ていても、彩り豊かな刺繍で極楽浄土を物語るように緻密に繍い上げていることが了解される。観ながら、ふと《バイユーのタペストリー(Tapisserie de Bayeux)》を想起した。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Teppich_von_Bayeux.jpg
《バイユーのタペストリー》は1066年のノルマン・コンクエスト(ノルマンディー公兼イングランド王ウィリアム1世によるイングランド征服)の物語の刺繡画である。7世紀日本の刺繍も、11世紀イングランドの刺繍も、刺繍職人たちが精魂込めて繍い物語る世界は尊い。
さて、私的に注目していたのが仏像であり、ゲストのむろさんさんから事前に教えて頂いていた《文殊菩薩立像》は、なるほど!紙製とは思えない完成度であり、文殊菩薩の結った髪先の破れから、確かに紙を重ねた証を観ることができた。紙製ではあるものの衣装には截金を施しており、鎌倉時代の作らしく玉眼であることも興味深かった。
(写真:中宮寺HPから)
《文殊菩薩立像》(重要文化財)鎌倉時代(1269年)
そして、最後の特別室に展示されていたのは、今回のハイライト《菩薩半跏思惟像》だった。が、その前室で眼を惹かれたのは数点の《菩薩半跏思惟像》写真の展示だった。それぞれの写真家の個性が出ていたが、やはり尋常ではない迫力を見せていたのは土門拳作品である。明暗のコントラストの強さは漆黒の《菩薩半跏思惟像》のボリューム感を彫り上げているようだった。
ということで、展示最終室の《菩薩半跏思惟像》に掌を合わせ、しみじみと拝見させていただいた。明るい照明の元で、近くで、離れて、ぐるっと回って...《菩薩半跏思惟像》は角度を変える毎に、観る者の眼に様々な姿を見せてくれる。やや俯き、静かに思索される表情も、頬に触れる洗練された指のポーズも、すんなりとした背中も、華やかな衣紋ドレープの内なる足の存在感...まことに魅了されるお姿をしている。
(写真:中宮寺HPから)
《菩薩半跏思惟像》(国宝)飛鳥時代(7世紀)中宮
特に印象的だったのは、照明のせいだろうか? 正面から近づき見上げると、意外なことに漆黒の厳かな威厳に圧倒されるようだったのだ。この菩薩像は決して優美でお優しいだけではない、男性的な荒ぶる力強さをも秘め、毅然とした厳しさもお見せになるのだと思った。
展示では《菩薩半跏思惟像》の復元CG映像も観ることができたのだが、なんと!現在のお姿は当初の装飾を取り去り、その後黒漆を塗ったものだ(追記:黒漆の上から彩色していた?)ということがわかった。復元CGでは、お顔にも衣装にも美しい色彩が施され、髪を結い上げた上から煌びやかな宝冠を被り、西方浄土を彷彿させる菩薩像であったことが偲ばれたのだ。
多分、飛鳥時代の人々は華やかで美しい《菩薩半跏思惟像》のお姿こそ相応しいと考えたに違いない。が、現代人の私は装飾を削ぎ落とし「素」となったお姿の方を美しいと思う。それは、古代ギリシア彫刻も鮮やかな色彩を纏っていたことを危うく忘れそうになるのと同じかもしれない。美の基準も、美意識も、時代の変化とともに揺れるのは仕方がないのだよね。
ということで、なんだか後半は急いだ感もあるけれど(汗)、遅ればせのサクッと感想を書き、ようやく去年からの宿題を終えた気分だ。
で、興味深かったのは、救世観音が元々は金堂の阿弥陀如来像台座に置かれていた?説でした。金堂に並んだ再現映像も面白かったです。録画もしたので、もう一度見てみたいと思います。
ちなみに、NHKプラスで「百済観音」を見ることができました(^^)v。ついでに、「舟木本洛中洛外図屏風」も見る予定です。
ということで、とりあえずの「救世観音」見ました!報告でした(^^ゞ
昨日のコメントで書いた下記URLですが、昨日まで再放送は8/31の救世観音の分だけだったのに、先ほど見たら9/6に遮光器土偶が放送されるとなっていました。洛中洛外図屏風と百済観音は「配信中」(但し登録が必要)となっているので、再放送の予定は出ていませんが、しばらく待てばこの2つも再放送されるのではないかと思います。実は私も8/28深夜のEテレ「百済観音」については、番組が始まってから気がついたので、あわてて録画をしたため、最初の数分は見逃してしまいました。ですから私も再放送を待っているところです(放送日が分かったらコメントします)。なお、現在東博平成館1階では救世観音、百済観音に関する8K映像を上映していますが、これもNHKの番組制作に関連して作ったもの(短縮版)のようです。
https://www.nhk.jp/p/ts/6L496K3Z7R/
<ご紹介サイトの「広目天」再現画像も意外過ぎて...
これは赤外線撮影の画像であり、NHK番組HPの救世観音の顔のように「推定して作ったもの」ではなく、再現というよりも真実です。ただし墨の線が強調されるというので、制作当初とは少し違う印象かもしれません。ご紹介した個人のブログ以外のもので「昔のヤンキーの眉毛みたいだ」という感想もありました。私も10年ぐらい前に専門誌(だったか奈良博の図録だったか)で初めてこの赤外線写真を見た時には少し驚きました。現状は長年の煤や埃で表情が見えにくくなっているということです。今回の図録には多聞天の顔の赤外線写真も出ていて、こちらは広目天より全体的に暗い色であるため、現状の顔と大きくは違っていません。ネットで探したのですが、広目天しかありませんでした。
救世観音が聖徳太子に似ているかどうかは、最近またこの件に関連する興味深い論考を見つけたので、8/31の放送を見た後にコメントします。
法隆寺の救世観音は私的にず~っと観たいと思っている仏像なのですが、NHKサイトの再現画像はやはり驚きでした(@_@)。ご紹介サイトの「広目天」再現画像も意外過ぎて...。
>赤外線写真は墨の線を強調する
ああ...あの救世観音のアルカイックスマイルがぁ...(;'∀')。でも、私的には聖徳太子に似ているような気もしますし、とにかく放送が今からめちゃくちゃ楽しみです(*^^*)
ちなみに「ぶら美」特集も見ましたよ(^^)v。東博の展覧会、本当に観たかったです!! ご覧になったむろさんさんやLuntaさんが羨ましいくらいです(^^ゞ
むろさんさん、貴重な情報をありがとうございました!!
https://www4.nhk.or.jp/P6741/x/2021-07-22/48/34660/3151307/
https://www.nhk.jp/p/ts/6L496K3Z7R/
元々は8K放送で遮光器土偶、洛中洛外図屏風、救世観音、百済観音の4回分が放送されていたようですが、現時点で再放送予定があるのは8/31の救世観音だけです。また、8/28の深夜、地上波のEテレで「百済観音」の再放送をしていました。高精細画像や頭上からの映像、東博でのCTスキャン映像(コロナ禍で開催できなかった展覧会の準備作業)などが出ていました。救世観音の回の紹介ページに出ている再現画像の顔を見て感じたのは、以前同じ法隆寺の金堂四天王の赤外線画像の写真が公開され、これと似ていると思ったこと(下記URL)。この四天王は今回東博に2体展示されている像ですが、赤外線画像の表情は現状とは異なりなかなか勇猛な雰囲気です。ただ、今回の図録解説を読むと、「赤外線写真は墨の線を強調するので、それが本像の本来の表情ともいえないだろう」とあるので、その辺は割り引いて考えないといけないようです。
http://torinakukoesu.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post-d34b.html
https://ameblo.jp/midori-kyo-konogoro/entry-10136410944.html
上野でブリューゲルのバベルの塔展をやっていた頃に、法隆寺金堂の釈迦三尊を芸大が復元したクローン文化財という展示がありましたが、造像当初の復元では何を使って(何を根拠にして)再現するかにより成果も異なるので、その再現がどこまで実物に近づけたのかには注意が必要です。この釈迦三尊の光背では東博所蔵(法隆寺献納)の小さな光背の周囲に飾られている飛天を参考にしています。類品がほとんどないのでこれを採用したものと思いますが、これでいいのかは判断できません。また、今東博で開催されている聖林寺十一面観音の光背の復元案では元にする天平彫刻によりいくつかの案があるようです。今回のNHK番組の救世観音の再現映像もそのような点で100%正しいとは思わない方がいいかもしれません。
なお、NHKのHPには夢殿救世観音について「本当に聖徳太子の姿なのか?」という記載も見られるので、上記コメント(1月頃)で話題となった「聖徳太子に似ているのか」「尺寸王身、上宮王等身」の問題を考えるヒントになるかもしれませんね。
で、早速二つの展覧会をご覧になったようで羨ましいです!! むろさんらしく事前勉強はバッチリでしたね(^_-)-☆。東博の資料室は利用したことが無いのですが、その充実ぶりが想像されます。確かに事前に勉強した方が取りこぼしなく、鑑賞もしっかりできますよね。
私は展覧会の事前勉強をあまりしないので、勉強不足を後悔・反省することが多くて(^^;
今回、むろさんさんが展覧会をご覧になり、興味深かった新知見などありましたら教えてくださいませ。楽しみにしております(^^)/
なお、私は7月にそれぞれ別に行ってきました。今はコロナ問題で見に行く展覧会を限定しているので、今回はその分事前準備を十分行うことにして、それぞれの開催日翌日ぐらいに一度東博の資料室を訪れ、関連資料コーナーを活用してきました。こういったコーナーは例えば都美の資料室でも設置していて、2016年頃のボッティチェリ展の時にもありましたが、ここまでしっかりと活用したのは今回が初めてです。専門書、雑誌論文などを探さないでも手っ取り早く読めるので、時間の節約にもなります。合わせて東博本館の売店に行き、図録も購入。従来は展覧会当日に図録を買うことが多かったのですが、今回は事前に買って、家でしっかり読んでから展覧会に行きましたので、最新研究(例えば展覧会準備で実施した仏像のCTスキャン結果や法隆寺金堂薬師如来・四天王の制作年代に関する見直し等)を知った上で実物を見ることができました。上記コメントで書いた内容でも多少考え直すことがありましたが、それはいずれ機会があったらまた。
で、西洋絵画における肖像画は、原則クライアントに似ていると思うのですが、多分クライアントの理想像もリクエストとして一部入っているんじゃないかとも思えます(;'∀')
一方、ラファエロも同じ頃にヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチの肖像を描いています(NYのメトロポリタン美術館蔵、下記URL)。これは工房作かコピーとされているようですが、同じラファエロが肖像画を描いている次兄レオ十世により、教皇軍総司令官に任じられたとのことで、背景に見えるサンタンジェロ城が意味深です。
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437373
ミケランジェロの彫刻は上記逸話が残っているぐらいですから、ラファエロ工房作?の肖像画の方が本人に似ているだろうと思います。
このラファエロ作品を取り上げたのは、今年の11月から大阪市立美術館で開催されるメトロポリタン美術館展にラファエロ作品が出品されるためです(下記URL)。
https://www.nikkei.com/topic/20210103.html
METにあるラファエロ作品はRIZZOLI集英社版世界美術全集「ラファエロ」によると、コロンナの祭壇画、同ルネッタ・父なる神と二天使、同プレデㇽラ・ゲッセマネの祈り、そしてこのヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチの肖像の4点であり、コロンナの祭壇画とルネッタは門外不出のようですから、日本に来るとしたらゲッセマネの祈りとヌムール公の肖像のどちらかだと思います。
このヌムール公の肖像は上記RIZZOLI集英社版世界美術全集や中央公論美術出版ヴァザーリ芸術家列伝全訳版第3巻によると、工房作orコピーとのことですが、このレベルの(真筆度の低い)作品は現地でもいつも展示されているとは限らないので、私としてはむしろこういう作品こそ日本に来て欲しいと思います。(大阪まで見に行くかどうかは、同時期に関西で他の展覧会や特別公開などが何かあるかにもよりますが。)
むろさんさんのお陰で聖徳太子にまつわる仏像・仏画について色々とディープに勉強することができました。ありがとうございます!!「聖徳太子と法隆寺展」...私も観たいものです(:_;)
で、ちなみに、京都清凉寺の《釈迦如来立像》も興味津々で、いつかぜひ観てみたいと思いました(^^ゞ
この件ではコメント欄が長くなりすぎるので、一旦RESしないことにします。当方ブログURLでも、少し考えてみます。
肖像が似ているかどうかで現存する作品が誰をモデルにしているのか、意見が対立している例として鎌倉時代後期の時宗祖師像のケースがあります。一遍上人を継いだ時宗第二祖の他阿真教という人の像で、神奈川県小田原市蓮台寺の像は像内の銘文から、亡くなる前年に作られたことが分かり、病気(中風)が原因で顔が歪んでいるのが特徴です。同様の歪んだ表情をしている像が埼玉、東京、山梨などにあり、銘がなくても容貌の特徴から同一人物の像と分かります。一方、京都東山の長楽寺には時宗祖師像が多数残されていて、他阿真教とされている像もありますが、顔が歪んでいる表現ではなく、もっと若い人物の像に見えます。京博の研究者の解釈も中風を患う前で長楽寺を開いた頃を表現しているとしています。この像は他阿真教没後の南北朝時代の作であり、生前の中風を患う前に作られた像ならその時期の風貌を表現しているという解釈も問題なく受け入れられますが、没後の制作なので、別人(時宗第四代の呑海)とする説(神奈川県立歴博の研究者)もあります。長楽寺像の像内銘文や納入品の墨書からはどちらとも解釈できますが、私は呑海の像だと思っています。2年前の京博一遍聖絵展では2体並んで展示されていました。
聖徳太子の肖像について、前投稿では理想化・パターン化と書きましたが、研究者は聖徳太子像の「怒りの表現」に注目しているようです。東大寺発行の研究誌グレート・ブッダ・シンポジウム論集 第3号カミとほとけ特集2005.12で阪大の藤岡穣氏が「聖徳太子の忿怒相と八幡神」の表題で短い文を寄稿しています。確かに平安・鎌倉時代の聖徳太子像には何歳の像であるかを問わず、怒りの表情が多いようです。藤岡氏は神像の忿怒表現からの影響を示唆していますが、聖徳太子の怒りとは何であるのか、神像では例えば怒り天神のような不当な扱いに対する怒り(怨霊の表現)があり、これと同様に太子一族滅亡に対する怒りなのでしょうか。これも聖徳太子の肖像に関する問題の一つです(神像の怒りの表現については、天変地異、怨霊などの荒ぶる神の性格の他に、仏教側からの都合のいい解釈としての「神身離脱できない神の苦渋の表情」という解釈もあるようです)。なお、東博で開催予定の「聖徳太子と法隆寺展」出品の聖霊院聖徳太子及び侍者像では、太子像が忿怒相であるのに対して、侍者像4体は(過去の出品時の図録解説等によれば)カリカチュアライズされた表現として、いささか滑稽な表情をしています。この対比の妙についても見どころの一つだと思います。
さて、法隆寺金堂釈迦三尊、救世観音の「尺寸王身」「上宮王等身」をどう評価・解釈するか、聖徳太子の容貌を反映しているかの問題ですが、これの参考になる本を一つ上げておきます。法隆寺に関する論文、研究書の数は膨大であり、仏像関係だけでもとても把握しきれませんが、研究の現状を手っ取り早く知る本として「法隆寺―美術史研究のあゆみ」大橋一章他編 里文出版2019 という研究史と各論文を紹介した本があります。この本の中で金堂釈迦三尊と薬師像について一章を設け、銘文についても触れています。「尺寸王身」については、「生身仏との関連」、「来世で太子が釈迦と一体となった姿」、逆に「太子といえども衆生の側であり仏格化を意味していない」といった論の紹介、また、中国での等身像を論じた大山誠一や肥田路美の研究など様々な意見・論文が紹介されています。主に中国美術史の研究者である肥田路美の研究については「釈迦銘の尺寸王身の問題に重要な示唆を与えることとなった」としつつも、日本彫刻史の研究者である井上一稔の(中国の例から法隆寺像への影響を推定した後で)「中国の等身像が直ちに法隆寺像に繋がるとするのに抵抗を感じるのも事実である」という意見も取り上げています。私はこの中国での事例と日本への影響についても研究の進展を望みますが、日本彫刻史の研究者でこの問題をこれ以上追及する人は今後もいないだろうと思っています(それを裏付けるような飛鳥時代・奈良時代の文書が今さら発見されるとは思えないし、聖徳太子の実際の容貌も確認のしようがないため)。中国の例から日本の仏像制作への影響という問題の進展は大山氏や肥田氏自身が進めるしかないと思います。
この本の尺寸王身に関する論文紹介で私が興味を持ったのは、造仏の初めとされる「釈迦が亡母の摩耶夫人への説法に行くので、不在を埋めるために優填王に栴檀の釈迦像を作らせた」という説話と、釈迦銘に書かれる「太子の母(穴穂部間人皇后)と聖徳太子が相次いで亡くなった後に金堂釈迦三尊を作った」ことが対応しているのではないかという考えです。上記の中国の造像例の影響もあるかもしれませんが、この説話・仏典からの影響も気になるところです。なお、優填王が天匠毘首羯磨に釈迦像を作らせた話は生身仏の起源として、最近文化庁の奥健夫氏が提唱しているところであり、運慶や快慶が用いた称号「巧匠アン阿弥陀仏=快慶」「巧師勾当=運慶」(天匠毘首羯磨に対する人間巧匠=じんかんこうしょう)の由来につながる話です。前コメントで書いた京都清凉寺の釈迦は三国伝来の像として、日本へ来る前に、この毘首羯磨が作った像が像自ら模刻と入れ替わった像(だから日本へは元々の像が来た)とされています(実際には宋の仏師が作ったものを将来)。
以上、長々と書いてきましたが、今回のことで私も思いがけず、法隆寺の飛鳥仏や平安・鎌倉時代の聖徳太子像をはじめとする肖像について勉強することができて、今年の夏に開催される東博「聖徳太子と法隆寺展」の予習ができました。
恥ずかしながら、日本の「吾妻鑑」とか読んでいませんでしたが、中世日本人も違う世界観の中に住んでいたのでしょうね。ホイジンガの「中世の秋」でも、中医術を世人の感情の起伏の大きさとか、物事の捉え方など、現代人とは大きく違うと書かれていました。むろさんさんのおっしゃる通り、当時の社会の理解は美術品理解にも必要ですね。
むろさんさんの「ランドゥッチの日記」を携えてフィレンツェの街を歩きたいという気持ちがよ~くわかります!!当時と変わらぬ街並みですし、臨場感も大ありですしね(笑)
で、ご紹介の感連本&資料のご紹介、ありがとうございました!!さっそく入手できるものは読んでみたいと思います。いつも貴重な情報をありがとうございます!!
ご満足いただき、お勧めしたこちらも嬉しく思います。私にとってもこの本は今まで出会った最高の本の一つ!と言ってもいいかと思っています。
私には「ボッティチェリの生きた15世紀後半のフィレンツェ」の社会、雰囲気、実態などを知ることにより、ボッティチェリの芸術をより深く理解したいという思いが強いので、ルカ・ランドゥッチの日記は最適の本です。辻邦生の小説「春の戴冠」、塩野七生の著書、惣領冬実の漫画チェーザレ、フィレンツェに関する美術史研究者の本(若桑みどりのフィレンツェ、石鍋真澄のフィレンツェの世紀、NHK出版フィレンツェ・ルネサンスシリーズ6巻など)、その他いろいろフィレンツェ関係の本を読んできましたが、やはり当時の人の肉声に勝るものはありません。フィクションはどこまでが事実か分からないし、美術史関係の本はその分野のことに限定したものなので、そういったものを補う意味でも当時の人が書いた原書の価値は格別です。
私は平安・鎌倉時代の彫刻史も対象としている関係で、鎌倉幕府や中世史専門の方から歴史の話を聞く機会もありますが、専門家の方からは「吾妻鏡などの原書を読むべき」と言われています。吾妻鏡は漢文でかなり難解な本ですが、今は現代語訳があるので、全体を通して読むと歴史物語として当時の世界に入り込むことができます。そして、ランドゥッチの日記も吾妻鏡も、現代人の常識とはかなりかけ離れた世界に生きていると思うことがよくあります(悪魔の赤ん坊が生まれたとか、聖母マリアが奇跡を起こしたとか、呪詛や物忌み・方違い・雨乞い、変成男子=へんじょうなんし:女性は成仏できないので、妊娠した子が夢のお告げで女子と判明したら、加持祈祷により男に変える修法を行う、等々)。鎌倉時代の初め頃の源実朝暗殺後に、鎌倉幕府御所の場所変更がありますが、この頃の記事は陰陽師を呼んで新御所用地の場所を占わせるといった話ばかりです。これが運慶・快慶らが活躍した時代の実態です(吾妻鏡には後白河法皇が運慶らのライバル仏師院尊に源頼朝を呪詛する毘沙門天を近江の国で作らせ、これを聞いた頼朝が腹を立てるという記事があります。鎌倉幕府が運慶一門の慶派仏師を重用することになった原因の一つとも考えられています)。こういうことを全て含めて当時の社会の実態を知ることがルネサンス・バロックや平安・鎌倉時代の美術品をより深く理解することにつながると思います。
ランドゥッチの日記については、いつかこの本を片手に、フィレンツェの町を歩きたいという夢を持っています。サヴォナローラがサン・マルコから引きずり出され、ポデスタ宮(バルジェロ)経由でパラッツオ・ヴェッキオまで連行されるまでの距離感とか、パッツィ家の陰謀の時のサンタ・マリア・デル・フィオーレとメディチ宮の間は走ったらどのぐらいか、といったことを実感してみたいということです。サヴォナローラが処刑されたシニョリア広場では、パラッツオ・ヴェッキオの北隣の商業裁判所にボッティチェリのフォルテッツァが(ポライウォーロの6寓意像とともに)置かれ、ロッジア・デイ・ランツィの前の通りにはボッティチェリのライバルであるポライウォーロ兄弟の工房があって、この広場はボッティチェリにとっても毎日のように通っている場所だったはずです。サヴォナローラ処刑の時にはボッティチェリも現場にいたに違いありませんが、どのような気持ちで処刑を眺めていたのか、ランドゥッチの日記の記事を読みながら、思いを馳せてみたいと思います。この日記には我々のよく知っている美術家はミケランジェロ、ヴェロッキョ、ドメニコ・ギルランダイオぐらいしか登場しませんが、まさにここに書かれた世界がボッティチェリを始めとした彼らの生きていた場所です。
ランドゥッチの日記に関連して、新潮社の広報誌「波」掲載の辻―高階対談はお読みになったと思いますが、高階秀爾著「ルネサンス夜話」に一章を使ってランドゥッチの日記の歴史的意義が書かれていますので、お読みになっているとは思いますが、一応念のために。
また、ついでながら、池上英洋著「レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて」2019.5.15にサルヴァトール・ムンディの信憑性について12ページにわたって述べられています。お読みになっているかもしれませんが、ご参考まで。(地元の図書館に行ったらあったので、借りてきて今読んでいるところです。)
「聖徳太子の容貌」は、難問すぎるとは思います。桓武天皇や藤原道長の容貌だってわからないのですからね。足利尊氏も肖像は違うそうですし。。現物・文献が少ない飛鳥時代の場合、周囲から考えると
・URLにあった隋文帝の「龍顔を知らしめた」例
・魏書釈老志にみる北魏の五帝王になぞらえた例
・日本で肖像画肖像が忌避され、僧侶・死者(制作時点での)・聖者が主な対象になったこと
これらを糸口に推測するしかないと思っております。
◆《文殊菩薩立像》
紙製文殊菩薩が阿修羅像のような脱活乾漆像と同じよう造りな方なので、あのような完成度の高い造形と精緻な表情が可能だったのですね。
で、ご紹介頂いた東博文殊五尊が可愛らしく素敵過ぎて(*^^*)、東博に行けるようになったら、ぜひ観てみたいです!!
◆聖徳太子像
法隆寺釈迦三尊や救世観音
>「尺寸王身」「上宮王等身」として聖徳太子と同じ身長で作られたということが重要であり、実際に聖徳太子に似ているかどうかは問題にしなかった
なるほどです。だから時代によってお顔が微妙に異なるのも了解されます。
>「霊性の付与」は原像の写しであることが「一目見て分かれば十分」
なんだか、中世キリスト教美術、東方教会のイコンを想起させるものがありますね。
で、広隆寺の聖徳太子像が「黄櫨染の袍」を天皇から下賜され着装されているなんて初めて知りました!!ご紹介の写真も拝見しましたが、いやぁ~、本当に「黄櫨染の袍」なので驚きました!!
むろさんさんのお陰で東博「聖徳太子と法隆寺」展を私も観たくなりました。でも...この状況下では....(涙)
むろさんさん、本当に勉強になる貴重な情報をありがとうございました!!
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0042895
法隆寺の金堂釈迦三尊や夢殿救世観音について、聖徳太子に似ているかどうか(いわゆる肖似性)の問題ですが、確実に言えることは「尺寸王身」=聖徳太子と同じ背の高さに作った、ということだけです。尺寸王身の文字は釈迦三尊光背に彫られている銘文に書かれているので、太子没後翌年の時点でそのように考えて釈迦像を作っています。一方、救世観音には銘文も造像当初の記録もなくて、「上宮王等身」という記載が100年以上後の天平時代(太子の斑鳩の宮跡を東院夢殿に整備した少し後)の記録(法隆寺資材帳)にあるだけです。救世観音は側面観が釈迦三尊(623年)と金堂四天王(光背銘文の仏師名「山口大口費」と日本書紀記載仏師名の一致から650年頃の作)の中間的な作風であること等の様式的理由から、623~650年の間ぐらいの制作と考えられ、643年の太子一族滅亡以前の作である可能性があるため、救世観音の造像は太子一族に関係し、当初から「太子の等身像」を意識していたとも考えられます。但し、釈迦三尊(中尊の像高は87cm)を尺寸王身に作ったことに対し、救世観音の像高は180cmなので、超人的性格として必ずしも実際の人間の身長にはこだわっていません。釈迦三尊との違いは太子没後それほど経過していない時期に、太子を理想化する意識が強くなったためだと思います。
釈迦三尊、救世観音の表情が太子の顔を意識しているかどうかですが、これらの像から約150年後に作られた唐招提寺鑑真和上像や法隆寺夢殿行信僧都のような実人物の肖像の場合は、本人の生前か没後すぐに作られていることもあり、そっくりの顔に作っています。平安時代以降の肖像では本人そっくりに作る場合と理想化・パターン化された場合の両方があります。中国の例は知りませんが、日本では肖像ではない「仏像」を作る場合には、それがたとえ聖徳太子の化身といった意識を持って作られたものであっても、本人の顔に似せるという意図は働いていないようです。
模刻制作における例ですが、中国と日本の意識の差として、平安時代・鎌倉時代の例を上げると、京都嵯峨清凉寺釈迦とその模刻像のことが思い浮かびます。現清凉寺本尊釈迦は平安時代中期に東大寺僧奝然が宋の国で三国伝来という釈迦像を宋の仏師に模刻させ、日本にもたらしたものです。現地ではインド?伝来の様式を異国風の表情まで含め、そのまま写していますが、日本でこの像に対する信仰が高まった鎌倉時代では「衣服の形は真似するが顔は日本の仏像にする」という形が一般的です。鎌倉時代中期に西大寺の本尊として仏師善慶一門が京都の清凉寺に滞在して、原像を前に模刻していますが、顔だけは鎌倉時代の日本の仏像として一般的な顔にしています。やれば真似できるのに、あえて異国風にはしなかったということです(なお、善慶は上記東博文殊菩薩で書いた善円が改名した同一人物)。同様の事例は法隆寺金堂西の間にある阿弥陀三尊もそうです。上記西大寺本尊制作の20年ぐらい前に運慶の四男康勝が原型を作っていますが、服制は同じ金堂内の釈迦三尊、薬師如来と同じ飛鳥様式ですが、顔の表情は鎌倉時代の日本の仏像の顔に作っていて、飛鳥様式の顔ではありません。日本人の意識としては、(善光寺阿弥陀、清凉寺釈迦、因幡薬師、長谷観音等の霊験仏に関して)仏像への「霊性の付与」は原像の写しであることが「一目見て分かれば十分」であり、必ずしも原像の表情をそっくり写す必要はないということです。この問題は最近日本の彫刻史研究者の間で広く認識されてきたことであり、論文もいろいろ出ています。
結論として、法隆寺釈迦三尊や救世観音については「尺寸王身」「上宮王等身」として聖徳太子と同じ身長で作られたということが重要であり、実際に聖徳太子に似ているかどうかは問題にしなかったということです。
なお、東博「聖徳太子と法隆寺展」出品の金堂薬師如来と聖霊院聖徳太子及び侍者像に少し触れると、薬師如来は以前から擬古作ではないか、とされてきましたが、30年ぐらい前の昭和資材帳作成に伴う調査で、内部構造が詳しく調べられ、鋳造技法が623年銘の釈迦三尊より進歩していることから、薬師光背銘の607年作は事実ではなく、623年以降の作であることがほぼ確定しました。しかし、670年の天智火災以降なのか、それ以前なのかは未だに確定していないようです。建物は670年以降の再建であり、金堂壁画も時代に沿った唐の様式ですが、仏像は釈迦三尊や四天王も含め若草伽藍から移されたものなのかなど、多くの疑問が残っています。薬師如来は金堂四天王と同じ頃(650年頃)かそれ以前に作られたものとしてもいいのではないかという気もしますが、607年銘を彫った理由がはっきりしないとこれ以上は分かりません。今年の東博展の図録解説で最新の研究動向を知りたいと思います。
聖霊院聖徳太子は釈迦三尊銘に彫られた聖徳太子没年の622年から没後500年を記念する一連の事業として、広隆寺の聖徳太子が1120年、聖霊院聖徳太子が1121年に作られています。広隆寺の聖徳太子は非公開であり、私も見たことはありませんが、裸形着装像として下着姿で作られ、実際の天皇が即位の時に使った「黄櫨染の袍」を皇室から下賜され、次の天皇交替までこの聖徳太子像に着用させるというものです。今の像が着用しているものは平成6年から着用していて、今回の天皇即位に際しても、秋篠宮の立皇嗣の礼が11月に終了し、天皇がこの黄櫨染の袍を使う全ての儀式が終了したので、今後数年かけて調整を行い広隆寺に下賜されるものと思われます。なお、この制度は(記録及び現存遺品では)室町時代後期から続いているそうです(広隆寺聖徳太子像の写真は下記URL)。聖霊院聖徳太子は像内に須弥山上に立つ救世観音(奈良時代の金銅仏で、夢殿救世観音と同じく胸前に宝珠を持つ形)を納入し、一方、広隆寺の聖徳太子は像内に鏡を納入し、その表面に線刻で半跏の救世観音(四天王寺式救世観音=別尊雑記などの図像集で半跏像として記載)を彫っています。鏡は像とほぼ同時期の作であり、仏の魂としての心月輪(しんがちりん)を現わしています。聖霊院聖徳太子、広隆寺聖徳太子ともに救世観音を納入していることから、太子は救世観音の化身(救世観音は本地仏)ということになります。なお、中宮寺の菩薩半跏像をお寺では如意輪観音と呼んでいますが、これは二臂如意輪観音を四天王寺式救世観音と同体とする考えから来るものです(中世にはあの菩薩半跏像も太子の化身と考えられていたということです。如意輪観音の持つ如意宝珠と夢殿救世観音が持つ宝珠を同一とする考えもあったようです。実際には中宮寺像の造像当初は多分弥勒菩薩として作られたはずです。中国では半跏像はいろいろな像種として作られていますが、朝鮮半島と日本ではほぼ全て弥勒菩薩であり、大阪野中寺の菩薩半跏像小金銅仏には「弥勒菩薩」の銘があることからも分かります)。
広隆寺聖徳太子像の写真
https://asitaaozora.net/travel/post-698/
(33歳の像と書かれているのは広隆寺の寺伝によるもので、実際にはその形式から古式の16歳孝養像と考えられます。)
で、おっしゃる通り《文殊菩薩立像》は紙製とは思えない完成度ですよね。菩薩さまもmomoさんの凝視に恥ずかしくなって、思わずウィンクしたとか?(^_-)-☆
《菩薩半跏思惟像》は本当に素敵でしたよねっ。momoさんも土門拳の写真が良かったなんて♪なぜか私まで嬉しいです。
おおお、momoさんも厩戸王子ファンでしたか?!あのビジュアルが刷り込まれているので、聖徳太子像を見ると別人のように思えて困ります(;'∀')
《文殊菩薩立像》はホントに紙ですか⁈
えー紙〜⁈と、紙には見えない(・・;)
あまりにも凝視しすぎて菩薩さまと目が合った気がします…(笑)
《菩薩半跏思惟像》は何とも言えない優しい微笑みに、心洗われました。
ちなみに私も土門拳さんの写真がいいです。
「日出づる処の天子」厩戸王子が大好きです😍
(笑)
なるほどです。わざわざありがとうございます!!
で、《文殊菩薩立像》はむろさんさんから事前に教えて頂いていたので子細に観察できました。ありがとうございました!!国内でも大変貴重な作例なのですねぇ。それに完成度も高くて、紙製とは思えないほどでした。研究者の皆さんの研究熱もわかりますね。貴重な情報をいつもありがとうございます。
それから、東博で「聖徳太子と法隆寺展」が開催されることも初めて知りました。観たいですよね!! コロナ次第というのが辛い所です(-_-;)。むろさんさんのご感想を期待しておりますよ~。
で、11月に「ランドゥッチの日記」をようやく借りることができ、読んだら面白過ぎて、そのままルネサンス時代に浸り、ブログもサボっておりました(;'∀')。本当に面白い本を紹介いただきありがとうございました!!
X>明治初期に法隆寺献納宝物と正倉院御物が1箱分入れ替わったことがあったようで、
○>もともと法隆寺倉庫から、中宮寺中興の信如さまが霊感でみつけたものでしたので、断片が法隆寺献納宝物に混じっていたのは不思議ではない。
その後この像に関する専門書、論文としては、2015年に銘文のある仏像類を集約したシリーズである「日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代編」11巻に収録され(同像の解説執筆は東博浅見龍介氏)、また、その後文殊菩薩の春日信仰としての意味からこの中宮寺像を取り上げた論文として、東博の増田政史氏が2018年に美術研究426号に「中宮寺文殊菩薩立像について―戒律と春日信仰―」という論文を発表しています。同氏は近年快慶作阿部文殊院像その他文殊菩薩について積極的に論文を発表している研究者であり、現時点では中宮寺の紙製文殊菩薩についての最も詳細な論考です。どれも専門書なので大学図書館などへ行かないと読めませんが、この像についてはこれでほとんど全てだと思います。
中宮寺の国宝菩薩半跏思惟像については、これも上で書いた岩波大和古寺大観1と倉田文作著「仏像のみかた―技法と表現」1965年第一法規出版 が役に立ちます。飛鳥・白鳳期にしては珍しい木寄せ方法の図解やそのような構造とした推定理由などが書かれています。
ついでに、法隆寺や聖徳太子関連の展覧会について。
東博で7/13~9/5に「聖徳太子と法隆寺展」が開催されます。私は国宝の金堂薬師如来と聖霊院聖徳太子及び侍者像に注目しています。ともに以前見ていますが、近くで鑑賞できる貴重な機会です。
https://tsumugu.yomiuri.co.jp/horyuji2021/index.html
https://tsumugu.yomiuri.co.jp/horyuji2021/highlight.html
聖林寺十一面観音展が6月から本館、聖徳太子が7月から平成館なので、7月以降は両方同時開催です。コロナの状況も心配ですが、今回の緊急事態宣言でも東博は休館にならないようですから、7月までにはもう少し事態も改善しているだろうと思っています。
で、私も復元《菩薩半跏思惟像》の色彩鮮やかに装飾を纏ったお姿に驚きました。現存するお漆黒の姿だけでも十二分に美しいですよね。
ということで、私の方こそ今年も Luntaさんの旅を楽しませて頂きたく、よろしくお願いいたします。
九州国立博物館の展覧会は宮城県美と違いスケールが違いますね。《天寿国繍帳》の実物が展示されるようで羨ましいです!!が、やはりコロナ次第ですよね(-_-;)
で、仏像は光と影に富む立体(彫刻)であり、確かに写真家には魅力的な被写体だし、モノクロの世界が似合うと思います。それにしても、写真の著作権も難しい問題ですね。
で、《天寿国繍帳》の断片が東博にあることを初めて知りました(^^;。貴重な写真をありがとうございました!!
中宮寺は二度ほど訪れていますが、元々は彩色されていたとは全く知りませんでした。
元のお姿、想像力不足でなかなかイメージできません。現代人としては現在の漆黒のお姿が美しいと思ってしまいますね。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188252225.html
日本の仏像鑑賞はまず写真から始まったように感じてます。優れた写真によって「仏像の美」という観念自体ができたのではないか? と思っています。
ただ、グローバル企業の貪欲(7つの大罪のひとつ)の影響で写真著作権が非常にうるさくなってしまいました。立体物の写真には著作権がありますので、要注意です、平面の古典絵画の写真、直接の複製である拓本などの写真には著作権はありません。また、本や図録の表紙、屋外のポスターなどの写真使用は慣例上問題はないことになっています。
中宮寺の菩薩尊像の 確実に 写真著作権消滅した画像を当方がアップしておりますので、ご利用ください。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bodhisattva_Chuguji.JPG
http://reijiyamashina.sakura.ne.jp/photo/Bodhisattva_Chuguji.JPG
紙製の文殊菩薩像については、残念ながら、写真著作権消滅写真を、未だにみつけることができていません、九州国立博物館のリンク(下記)を使うのが良いと思います。
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/s_59/p03.jpg
この紙製の文殊菩薩像について、詳しい解説をネットにあげているかたがありましたので、紹介::
中宮寺文殊菩薩立像 | ネコ好き☆SHINACCHI blog
https://ameblo.jp/shinacchi79/entry-11207709167.html
天寿国曼荼羅繍帳については、昔NHKの酷いインチキ妄想本もありましたが、
当方も、少し書いています。明治初期に法隆寺献納宝物と正倉院御物が1箱分入れ替わったことがあったようで、そのために東京国立博物館(もと帝室博物館)にこんなものがあったりするんですね
天寿国
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/183540169.html