予期していた事ながら、五月初旬その日が訪れました。A専務が他界されたのです。亡くなる三週間くらい前から入院しており、私は2~3日に一回くらい業務報告を兼ねて病室を訪ねておりました。
業務報告を苦しそうに聞きながらも適切な指示を与えたりするなど仕事が生きがいと思われるような生き様でした。受注が何よりの薬と喜んでくれる姿が今でもありありと思い浮かびます。以前のA専務とは人が違ったような印象を受けたのは、きっと私だけではなかったと思います。死期を悟った人間というのは、かくあるものかと感じさせられるものがありました。
人の命ははかないものと同様に会社の命もはかないものです。A専務が亡くなって、一月もしない内に経営状態が怪しくなり、あえなくG社に出資していたK社に経営を委ねることとなってしまいました。
私ともう一人はK社に移籍できましたが、その他は退職を余儀なくされました。A専務でもっていたような会社でしたから致し方ないと言えばそれまでですが、G社に勤めて半年あまりの私にとっては、実にあっけない最後であったと言わざるを得ません。どうも持って生まれた運というべきものなのでしょうか、うまくいきそうになると必ずや奈落の底に突き落とされてしまうようです。
しかし、そこでメゲナイのも私の真骨頂でしょう。少なくもノー天気な性格が幸いしているようです。
ここでK社のことに触れておきます。K社のI社長とA専務は昔からの知り合いで(同業)、A専務はS社を退職した後、K社の代理店として省エネシステムの営業していたようです。その関係で、G社を立ち上げるに際してK社から出資を仰いだようです。この辺の事情は伝聞ですので正確を欠くと思います。何せG社に就職する以前のことですからいたしかたありません。
K社は元々デマンドコントロールシステムを設計・施工している会社です。ここ数年で急成長しており、ESCO事業に進出したりと私が移籍した頃は、まるで日の出の勢いといった感がありました。ある意味では、半年間で失業の憂き目にあうところを救われた訳ですから、感謝すべきところでしょう。
しかし、正直悩みました。以前書いた社長面接寸前までいっていた会社に、断りの連絡を入れたとき採用担当の常務から「就職される会社に問題があったら是非当社にきてください。」と言っていただいていたことです。勿論、社交辞令とは思いますが、妙に将来を暗示していたようで気にかかって仕方ありませんでした。
ただ、G社在職中にお世話になった方々や信頼して導入いただいたお客様に対して申し訳がない。K社に移籍すれば、このまま営業やサポートができる。このまま放り投げたら、ヤッパリ「省エネ屋」だと人のそしりを免れないと色々と考えた結果の移籍でした。人からみれば、お前らうまくやったなとしかみられていないと思いますが、言い訳に聞こえるかも知れませんが当時の心境を綴っておくことにしておきます。
社長のI氏は、バイタリティーあふれる若き経営者で、100%理論(このシステムは100%売れる。なぜならば必要とされているから。)が持論でした。営業担当者からすれば、この理論を持ち出されると何も言えなくなってしまうのでした。
K社へ移籍して2年間ほど勤務しましたが、家庭の事情で退職致しました。K社在職中も色々ありましたが、これは未だ会社が現存することでもありますので、何れ改めて書くことにさせていただきたいと思っております。
その後、「省エネ業界」から身を引いて、全く別の展開を色々と模索はしたものの、結局はまた舞い戻ってしまいました。しかし、今度は業界から一定の距離を置き、業界の健全な発展のため力を尽くせればと考えております。そういった意味でも行政書士という立場を活かしていけるのではないかと考えております。
「
省エネ屋のつぶやき(9)-行政書士編」
「
省エネ屋のつぶやき(7)-高圧編」へ戻る