眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

終盤の覚醒(自陣二枚飛車の失敗)

2023-04-06 04:02:00 | 将棋ウォーズ自戦記
 振り飛車党の人には、美濃囲いを心から愛する人が多いのではないか。囲いの長所や弱点、勝ちパターンも経験を積むことで理解している。最も大事なのは、49の金だろう。囲いの要の金が無事なのかどうかで勝率は大きく変わってしまうように思う。それをはがされて勝つことは容易でなく、逆に言うと達人レベルの人はそうした窮地でさえも何とか凌いで勝ち切ってしまうのだ。
 その時、僕の美濃は49の金を既に失っていた。そして、銀の腹から48金と張りつかれた。中飛車の59飛車に当たっていて痛そうだ。相手は持ち駒に角を持っている。まず考えたことは飛車取りをどうしようかということ。そして、この金を放置しておくのは気持ちが悪いということだ。そこで僕は持ち駒の飛車を自陣に投入して、49飛車!?と打ちつけた。言わば金の代用として飛車を使ったのだ。受けとしてはある意味で最強ながら、疑問手だった。なぜなら、手抜いて攻め合いに出る絶好のチャンスだったからだ。では、なぜ受けてしまったのか? 攻め合うという判断ができなかったのだろうか。


・攻め対受けの構図・リズムができていた

 しばらく前から居飛車の猛攻を受ける展開が続いていた。攻め潰されてなるものかという心構えで、視線が主に自陣の方に向けられていた。あなたがぼけて、私がつっこむ。あなたが食べて、私が作る。あなが命じて、私が動く。人間は役割が固定され定着してしまうと、なかなかそこから抜け出すことが難しくなる。言わばそれは必然的な手拍子だった。受け止めようとして逆に攻めが調子づいてしまうということはよくある。
 結果、どんどん攻め込まれて、受けの難しい形に追い込まれることになった。
「受け方がない!」
 そうなって初めて攻め合うという発想を抱くけれど、それではほとんどの場合、一手遅れているのだ。
 最初から攻める発想を持っていれば、それ以前にそのタイミングはいくらでも見つけることが可能だ。受けがないということは、攻めが厳しさを極めているという証で、本当に攻め合いに出るべきタイミングは、受け方がないところではなく、受ける必要がないところだと言える。要はより主体的に、積極的に見つけるべきということだ。


・受けを学んでしまった

 もっと以前なら、そもそも自陣に飛車を打って受けるという発想自体浮かばなかったかもしれない。当然、ノータイムでそこに手がいくということもあり得ない。言わばそれは学習の結果、あるいは途中経過としての(前向きな)失敗でもある。攻めだけに満足していれば、受けを学ぼうとしなければ、受けて間違うことはないはずだ。新しい言葉を覚えた子供は、的外れでも何でもやたらとそれを使ってしまうものだ。デタラメを交えながら、だんだんとバランスを取り精度を向上させていく。将棋にもこれと似たようなところがあり、上達の過程で失敗はあるし、成績が下がることも珍しいことではない。


・一段落をつけたかった

 まずはしっかりと受け止めてから。一段落をつけてから、思い切って攻めたい。どこかにそういう考えもあっただろう。例えば、ちゃんと宿題をやってから心置きなく遊びたい。歯を磨いてから眠りたい。大掃除を済ませてから年を越したい。そのような考えの人は多いのではないだろうか。だが、よほど形勢が離れていれば話は別だが、際どい将棋であるほど、それほどわかりやすい段落をつけることは、現実的ではない。
「完全に憂いが去るのを待ってから……」
 言わばそれは絵空事だ。遊びながら宿題に当たり、歯磨きしながら仮眠を取り、モップをかけながら餅をつく。将棋の中の暦はいつもカオスなのだ。一段落を待って攻め合うことはできない。では、どこで?


・終盤の覚醒 ~強さとは?

 もしも、寄せ合いのモードに入っていれば、飛車取りでも何でも手抜くことを考えるだろう。だが、入っていなかったら……。
 感覚の切り換えが上手くできなれば、「駒損の壁」を越えられない。損をしてはいけない。ただで取られてはいけない。飛車を取られてはいけない。と金を作られてはいけない。「損をしない」ことに囚われている内は、攻め駒ウォッチャーとなり視野が限定的になりがちだ。駒の損得というものは、元から相対的なものではないか。例えば、序盤の角交換だ。一瞬、角を取られるがすぐに取り返せるので駒損ではない。代償があればよいのだ。剣術的に言えば「肉を切らせて骨を断つ」だ。将棋という激しいゲームの性質上、そのような感覚の切り換えが重要になる。

「終盤の強さ」=「寄せの技術/詰将棋の力」?

 そこは潜在能力/底力とはなるが、それだけでは上手くいかないことも多い。人間はAIとは異なり、最初から最後まで一貫して手を探すことはできない。現在地を探りつつ読みを絞っていかなければならない。初手から詰み筋を読むような真似をしても無駄に疲れるだけだろうし、終盤は終盤を感じてスイッチを入れることが普通だろう。
 いくら詰将棋が得意でも、手がみえても、終盤がみえなかったら? 発想が終盤的に働かなければ、力を出し切れないのではないだろうか。
 重要なのは「覚醒の早さ」(的確さ)だ。
 終盤は序中盤でも現れる。故に本当に終盤が強い人というのは、序盤から強い。または序盤も含めて強くなっていくものだ。


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