眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

詰んでいるのに負けてしまう

2022-06-22 03:58:00 | 将棋ウォーズ自戦記
 集中力を持続させることは難しい。今日はそんなことを学んだ。

 相振り飛車は囲い方に迷う。金無双はバランスが良さげだがつぶれる時のあまりの脆さは悲しいほどだ。美濃に組んだら組んだでいきなり端攻めを覚悟しなければならない。できれば自分から攻めたいものだが、相手がいることでそう上手くはいかない。

 相手は端に力を集めて攻めてきた。少し無理だったので受けが成功した。玉が先頭に立つ受けで相手の攻めを受け止めて、中段玉の陣を築いた。相手の攻撃陣にプレスをかけて押し返した。攻守逆転、とうとう相手の飛車を11の地点にまで追いつめた。そして完全に飛車が詰んだ。必勝だ。潔い相手なら投了も考えることだろう。とは言え、まだ相手の玉は王手もかかってない。時間勝負の要素も残っている。相手は投げる気配もなく、詰んだ飛車を放置したままかゆい攻撃を繰り出してきた。

「はいはい、何ですか?」
(いつでも飛車は取れる)
 なぜなら詰んでいるのだから。そして急ぐ必要は何もない。
 同歩同歩。ささやきでも何でもすべて聞いておこう。雨が完全に上がって大人しくなってから、ゆっくりと飛車を取ればいいのだ。(細かなことを気にして時間がなくなったら大変だ)僕の方針はシンプルなものだった。

「はいはい、みんな取りますよ」
 突っかけられるかゆい歩はみんな取った。
 続いて相手は馬に働きかけてきた。勿論、大事な馬をやるわけがない。詰んでいる飛車との交換など論外だ。(まあ要の金と差し違えるならありだな)僕は馬を逃げながら敵陣の一段目に潜り込ませた。すると相手は自陣にいた香を走らせた。

「まだ何か?」
(そろそろ雨は上がらないかな)
 僕は当然のように香の相手をした。
 その時だった。
 相手の飛車がさっと動いた。

「えっ?」どこへ行く?
 何と詰んでいた飛車が動いて一段目の馬を取った。
 飛車が生き返った!
 馬を取られた!
 まるで魂を素抜かれたみたいだ。

(投了もやむなし)

 頭を下げるのは今や僕の方になってしまった。
 ああ、将棋とはなんと恐ろしいゲームだろう!
 その後、目標を相手の玉に切り替えて何とか食いつこうとしたものの、戦力不足は否めない。最期は復活した飛車が活躍して見事に詰まされてしまった。


 ~巧妙なトリック(種明かし)

 仕掛けは単純だ。相手の自陣にいた香が走ることで飛車の進路が開けた。同時にそれがこちらの馬にも直射していた。勿論これらは偶然なんかではない。こちらの油断を利用した巧妙な罠だった。

(詰んでいるのは絶対じゃない!)

 将棋において唯一絶対と言えるのは、王様が詰んだ時だ。将棋ウォーズでは、即ゲームオーバーとなる。優勢や勝勢、必勝なんていうものは、それに比べれば全く危うい状態でしかない。「飛車が詰んだ」などという状況はまだ何も手にしていないのだ。逆転は心の隙に潜んでいる。
 飛車が詰んだという一瞬の状況を、僕は楽観してもう飛車を手にしたような気になった。相手のかゆい手に応接する内にもう勝ったかのように楽観した。「かゆい」部分こそが相手の罠の中のカムフラージュなのだった。あえて緩い手、どうでもいい手を交えることにより、こちらを油断させ視野を狭くさせ従順にさせていた。そして、頃合いを見計らって馬に狙いをつけ、香をおとりにした飛車復活&馬ただ取りの大技を成功させた。本当なら詰んでいた飛車だし、取られることない馬だった。(自陣に打った香が動いて大駒の利きが通るというのは視野が狭くなっていると見落としやすいので特に注意したい)

 いくら楽観しているとは言え、すぐに香を走ったりすれば、相手の狙いに気づけたと思う。そこの間の取り方が上手い。しばらく死んだ振りをして、弱い手、意味不明の手、どうでもいい手を、色々と挟んでいる。そういう逆転術もあるのだ。
 どうでもいいような話を長々とする人がいる。しかし、どうでもよさげな話の中に、重要な秘密が隠されていたりすることがある。あまり決めつけてはいけない。
 飛車が取れそうなだけで勝ったように決めつけては、勝てる将棋も勝てなくなる。玉が詰むか相手が投了するまでは勝ちではない。極めた人ほど、そこに至るまで感情の揺れは少なく、楽観もしない。
 けれども、ほとんどの人は飛車が取れればやはりうれしいのではないか。


 ~将棋の喜びはどこにあるのか?

 一番うれしいのは玉を詰ませた時か?
 形勢優位を実感して勝つためのビジョンを頭の中で組み立ている時間。そこにも将棋を指していて幸福な時間がある。
 天王山に角が躍り出た時、相手の飛車を取った時、要の金をはがした時、と金を作った時、馬を引きつけた時、一間竜で迫った時、底歩を打った時、穴熊を再生させた時、よい手を指せた時、形勢に手応えを感じた時、その時々で喜んだり楽しんだりすることは、決して悪いことではないと思う。
 楽しむのはよい。(但し、浮かれないこと)


「悪くなかった。勝負には負けたけど」

「ふん、つまるところは言い訳よ」

「内容は光るものもあったのでは?」

「手拍子が出てしまうのも、3手詰めを逃してしまうのも、みんな実力よ」

「でも時間がなかったし」

「ちゃんと考えたら指せる?」

「少なくとももう少しは」

「そとは限らぬ! 直感が指すところにこそ実力は表れるものじゃ」

「時間に追われれば人間はおかしくもなるんです。神さまにはわからないかもしれないけど」

「わしは今忙しい! お前と違って引っ張りだこじゃ!」

「また教えてください」

「好きに楽しむがよい」


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