眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

選択の楽しみ

2023-07-20 04:33:00 | いずれ日記
 うどんと言えば天ぷらだろうか。いや、うどんと言えば焼き鳥だ。いやいや、うどんと言えばフライだろう。いやいや、うどんと言えばパンだよ。うどんの隣に置いておきたいものは、人それぞれかもしれない。
 メインのうどんを注文すると先に進み、小皿の上に何かしらの天ぷらを選んで置く。並んでいる天ぷらは、適当な数と種類があることが望ましい。(少なすぎては残り物のようで寂しく、多すぎてはアマゾンの倉庫のようで手に余ってしまう)数種類みえる天ぷらの中から1つ、2つと自分の意思で選ぶことが楽しい。前はこれだったけど、今日は(今日も)これにしよう。今日はこれだけども、今度はあれにしよう。目に映るものは多くとも、すべてを置けないことはわかっている。何かを選ぶということは、何かを選ばないことでもある。喜びの中には切なさも含まれるということだ。これは職探しでも、パン選びでも、共通して言えることかもしれない。

「dカードはお持ちですか? 楽天ポイントはお持ちですか? gooアカウントはお持ちですか? 目覚めの悪い日はありますか? 現在の回線速度に満足してますか? 殴ってやりたい上司はいますか? 暑くないですか? 該当するところに丸をつけてください」

 うどんを食べるだけでも、ある程度の意思表示は必要になる。それが現代的な飲食・サービスのあり方なのだろう。

「ぶっかけと、海老、かしわ……、1300円とちょっとになります」

「おーい! 出汁はどこや?」

「か、かえるが出たー!」

 店内は外国人観光客の姿も多く、活気にあふれている。所々にセルフならではのカオスもあって、それも含めてうどんの醍醐味であるかもしれない。いずれにしろ、僕はまた日曜日にうどんを食べに来るだろう。あの角の街中華が定休日だから。

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みそ汁を買いたい

2023-07-13 23:04:00 | いずれ日記
 みそ汁を買うつもりだった。しじみのみそ汁だ。ずっと買うつもりで頭の片隅にみそ汁を置いているはずだった。特にメモにして持ち歩くほどではない。そこまでしなくても自然に街に出て戻ってくれば大丈夫なのだった。商店街の外れで助六を買って、その近くで小松菜とミニトマトを買った。小松菜は手で千切って使えるし、ミニトマトは暑い季節には爽やかでよい。キリン堂に寄った時に、チャンスはあったが、蒟蒻畑に目が行った。それからポカリが安くてすぐに手に取った。ミツカンのフルーティスをカートに入れたが、結局みそ汁のことを思い出さなかった。今日もみそ汁を買えないままに帰宅することになった。だが、今日は駄目でも明日はちゃんと覚えているかもしれない。明日になればわかることだ。
 いずれにしろ、近い内にみそ汁を買うことになるだろう。しじみのみそ汁、あるいは、あさりになることもあるのかもしれない。

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おすすめテイクアウト

2023-07-05 18:18:00 | いずれ日記
 ラーメンのテイクアウトはあまりおすすめではない。麺が伸びたり、スープがこぼれたりという心配がある。ラーメンは家でも作れるのではないか。トッピングを自在に工夫したりして、好みのままに、場合によってはお店よりも遙かに安く、そこそこ美味しくできるのではないだろうか。

 バーガーはどうだろう? 人々はなぜ並んでまでバーガーを持ち帰ろうとするのだろう? バーガーは家でも作れるのではないか。食パン(ちょっといいパンを使ってもいい)などに適当な肉や野菜を挟んで中に好きなだけケチャップやマヨネーズを入れればいい。熱くしたければ好きなだけレンチンすればよいだけだ。味もボリュームも自分の好きに変えられるし、お店よりも遙かに安く、十分に美味しくできるのではないだろうか。わざわざ行列に並んでまで持ち帰るほど、有り難いものがどれほどあるだろうか。

 だが、やはりテイクアウトは手軽だ。帰宅した瞬間に食べられるのは大きな魅力でもあるだろう。先日は商店街の外れで助六ときゅうりの細巻きをテイクアウトした。おすすめのテイクアウトは、お寿司である。「寿司だって自分で作れる」そう言ってしまえば、結局何だってそうなのだ。(自分でやってみることは素晴らしいことだ)ラーメンやバーガーと比べ、お寿司の難易度はどれほどのものだろうか。コスト、味、多様性、バランス、芸術点。総合的にみてお寿司はおすすめだ。

 いずれにしろ、僕はまたあの商店街の外れに古くからあるお寿司屋さんのテイクアウト窓口をたずねるつもりだ。いつ行ったとしても、行列に並ぶ必要なんてない秘密の名店だ。

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それがなければ

2021-09-12 04:32:00 | いずれ日記
 マーボーの素があった。
 冷蔵庫の扉を開けてみな動くな!と叫んだそこに見えたものは、トマトジュース、ヨーグルト、ウインナー、バター、チーズ、ソース、マヨネーズ、ウィルキンソン、みんながいたことは動かない事実だったし、「ここにないものはないぜ」とポールが澄んだ声で言い放ったことも事実だ。わかっているよ。僕だって薄々は気づいていたんだよ。
「外は雨ですぜ」
 長田さんが言うように窓の外は結構な雨が降っていた。忘れるか、家を出ていくか。僕はずっと迷っていた。
 いずれにしろ豆腐がなければマーボードーフはつくれない。


 物を書いた。
「どこに行くの?」
「わからないな」
「君はそんなこともわからないの」
 用意された下書きもなく真っ白いノートに向き合って、ただ思いつくままの勢いに任せれば、言葉となって現れるのは理屈、節、展開のようなものであろうが、遠くかけ離れたものを結びつけたり、目の前の対象一つ一つに疑問を投げつけてみたりしながら、現在地から遠ざかることを願い、突然に何か未知の着想が生まれることを祈り、自分の中から放出されていく感覚に陶酔すれば、時の経つことも忘れて現世から切り離されたところで、もはや孤独であっても孤独ではないような境地に達したあとの、届けるべきところをたずね、届かない果てに迷い、いかなる発見もいかなる停滞も、あとになってみればすべては一瞬の内に読み飛ばされていくということは事実だ。
「どこまできたの?」
「どうせどこにも行けないや」
「またいつかの道じゃないの」
 いずれにしろ書いた物は残り、それは何かが歯痒かったということの証なのだと思う。

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昔の歌

2021-09-09 14:41:00 | いずれ日記
「どうせ誰も聞いてないから」
 あなたもどうだいとトモは言った。
 トモの歌は素晴らしく上手かった。普段のしゃべり声よりもとても力強いものだった。ほとんど聞き惚れてしまうような歌。どこにいってもきっと通用する。誰だって惜しまぬ拍手を送るだろう。そのような歌を聞かされたあとで、マイクは次の歌い手を探して宙をさまよっていた。確かにトモの言う通りなのだろう。周りを見渡せば眠っている者、話に夢中になって声の大きくなっている者、ただ食べることに集中している者、みんなそれぞれに世界を持っている。他人の歌などまるでどうだっていいのだった。
「どうせ誰も聞いてないから」
 それは確かなようだったが、僕はマイクを持たなかった。
 それは歌う理由にも、歌わない理由にもなりそうだ。
 未だに僕はそれを決めることができないでいる。
 いずれにしろそれはもう昔の話だ。
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その後の暮らし

2021-09-08 02:53:00 | いずれ日記
 謎が明かされた。
 断崖絶壁の辺りに集合して密になった人々は不安を募らせたり危機感を露わにしながら事の行く末を見届けようとネジで固定されたようにその場に動かず、どこかに気のつく人がいて椅子を差し出したりお茶やお菓子をすすめたりという場面はなく、真相を突かれた人物が幼少からの記憶を振り返って感情を込めながらゆっくりとした口調で語るところを、「今ここで言うことか」などと厳しいツッコミを入れたりもせず、むしろうっとりとして聞き届ける人々の姿勢に、集まった人々の深い絆が感じられ、聞く人の存在あればこそ長々と停滞した時間に人生の機微をみつけることが、夜の深まりにサスペンスとして刻まれていくということは事実だ。
 いずれにしろ事件が解決すればめでたしめでたしエンドロールが流れたらあとは我に返るばかりで、がっちりと握手をかわした犯人と名探偵にも花束が贈られている。

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夢のおっとっと

2021-09-07 22:34:00 | いずれ日記
 ふと目が覚めて夢のことを振り返った。
 重なった千円札はお釣りだったがその上には一緒にボールペンが乗っていて妙に受け取ることが難しく、僕はおっとっととなりつつも何とか膝を折ってバランスを取りつつ受け取ると抜け出し難い回転ドアとしばらくの間格闘していたが、やがては商店街の中を歩いており、誰よりも速く歩くことがその時の僕のプライドであったということは事実だ。
 いずれにしろ一度目が覚めた時には冷蔵庫を開けて何かしらのお茶を手にして気持ちを落ち着かせることになるが、同じ夢の世界に戻れるということは希であり、せめて記憶が少し熱を帯びている間に書き残しておくことによって、誰かに読んで聞かせる機会も自ずと訪れるものと思う。

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みっけものはあるか 

2021-09-06 05:50:00 | いずれ日記
 フードコートのすぐ横では掘り出し物の市が開催されていた。
 衣服、鞄、貴金属、帽子、ベルト、マスク、アクセサリーといった様々な品が適当に並ぶ中で、すぐ近くを通った人々が不意に関心を寄せて立ち寄ったり、その中には家族連れや仕事途中のビジネスマンやただ何となく散歩にきたという人もいろうが、思わず衝動的に何かを買いたくなったりすることもあるようで、金は天下のまわり物とも言われるように、落とすべきところに落とすことが経済を活性化させることになるのかもしれないが、月曜日の昼下がりのフードコートにはちらほらと人影がみえていて、賑わっているというわけではないが、いかにも普段通りの日常だと僕が心の中でつぶやきながら古びたpomeraとしばらくの間戯れていたということは事実だ。
 いずれにしろ本日最終日という赤と白の表示をみる限りは、必要な物を必要とする人は急ぐべきであって、今テーブルの上に置かれたウェルチはきれいなぶどうの色をしているようだ。

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エレクトリック自販機

2021-09-05 04:47:00 | いずれ日記
 自販機はタッチパネルになっていた。
 出っ張ったところのない美しい佇まいの本体の中には様々な飲料、オロナミンC、リプトン、缶コーヒー、トロピカーナ、小岩井りんごジュース、三ツ矢サイダー、麦茶、生茶、アイスティーといった老若男女様々な層に喜ばれるような飲料が用意され、訪れた人々の期待に応えるために常に不動のポジションをキープしながら、本体の上の方のディスプレイでは俳優がお茶を手に街をかけたり、ディズニーのキャラクターが踊ったり、千鳥が漫才をしたりと、ひと時も人々を退屈させない工夫が随所に光っており、実際に商品を手にする際には、それはお茶でもデカビタでもウェルチでも何でも構わないわけだが、昔ながらに小銭を投入してもよく、あるいはWAONを本体にある指定された場所にかざすことによってお目当ての物を購入することができ、一度に求められるのは一つだけではあるが、選ぶということも楽しみの一つとして数えることができるものだし、触れてかざして手にする気軽さこそが、現代社会を象徴する仕様になっているということは事実だ。
 いずれにしろ商品を手にして一旦開封したあとは、さっさと飲みなさいということになっている。
 
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親指シフトウォーキング

2021-09-04 02:38:00 | いずれ日記
 テーブルに足の指をぶつけた。
 ぶつかった瞬間、とてつもない衝撃に襲われたが、傍に誰もいなかったために痛みを口に出して叫ぶようなことはせず、ただじっとがまんするように努めながらも、よそ見してた、考え事して疲れてた、寝ぼけてた、様々な原因分析をしながら、要するに部屋が狭すぎるとか、いいわけめいたことはいくらでも考えつくわけだったが、ただそこにあっただけのテーブルを責めるのは筋違いで、わるいのは自分なのだと自ら納得させながら、「折れてなければいい」と願っていたのは三日前のことで、黒ずんだ薬指もじっとしていればどうということもないが、靴を履くと明らかに違和感があり家を出て歩き始めるといつもの半分ほどの速さでしか歩けないことにもどかしくなり、階段を下りるときは踵から踏み出すことで痛みから逃れていたが、地下道を抜ける時には骨付きの傘が捨てられているのを目にし、夏休みも折り返しに入った街はどんよりと曇って猛暑という言葉から抜け出しつつあるあるようで、ウエルシアの側を歩きすぎる頃に僕は「親指シフトウォーキング」という歩行手法を見つけつつあったということは事実だ。
 いずれにしろ折れていないようで折れているということは過去にも経験したことであり、それがしっかりとわかるのはレントゲン室を出たあとになるのだと思う。

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明るいキッチン

2021-09-03 06:36:00 | いずれ日記
 スイッチをつけようとするともうついていた。
 押そうとして押されていたものを発見した後では、押しかけた指の行き場はもうなくて、当惑した指先がしばし犯人を探しながら宙を泳いでいるが、勝手にスイッチを押してみせるささやかに霊的なものの存在を除外すれば、家の中にいる人間は一人だけなのだから、名探偵の到着を待つ必要もなく犯人は今ここに立っているこの指の持ち主に違いなく、明らかにそれは限られた人生における余計な一手間であるのかもしれないが、ついてないなと下を向く日がある一方で、ついているのかと天井を仰ぐこの日の夜のようなこともあるというのは事実だ。
 いずれにしろキッチンにあるささやかな明かりの下で、洗うべきものはすぐに洗うべきであって、それを先延ばしにして得られるものは何もないのだと思う。

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おにぎりとメルヘン

2021-09-02 00:49:00 | いずれ日記
 おにぎりを食べた。
 おにぎりは見た目にも愛嬌があり1つ手に持っていると様々な物と交換を持ちかけられることもある。一度手から滑り落ちればコロコロと転がりはじめて、持ち主を失ったおにぎりを求めて他の動物たちが寄ってくるが、実際にそれに触れることのできるものは希であって、運動をやめることのないおにぎりは街をまたぎいつしか見知らぬ森までも行くようなこととなり、そこで自分のおにぎりであることを主張すると妖精のようなものに邪魔をされたり、いくつかの答えのない問題を出されたり、おにぎりを与える見返りに無理難題を与えられたりするお話は多くの国に存在し、人々の口元を緩ませたり、また箸休めとなっているとうことは事実だ。
 いずれにしろ、おにぎりを包み込むためには別に海苔が必要となり、それには味付け海苔や焼き海苔などの種類があるが、どれを選択するかはそれぞれの好みによって自ずと決まってくるものと思う。

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ドラッグストアの肯定

2021-09-01 06:07:00 | いずれ日記
 ウエルシアではウルフルズが流れていた。
 ドラッグストアには、お薬、シャンプー、ヨーグルト、お米、菓子パン、冷凍食品、カップ麺、酒類、文具、マヨネーズ、豆腐、うどん、コーヒーゼリーなど、多種多様な商品が売られており、また、昼前から深夜まで開いているところも多く、レジにてTカードを通すとTポイントがつく場合もあり、コンビニの便利さとスーパーのお得さを兼ね備えた場所であろう、と多くの層から絶大な支持を持って歓迎されているということは事実だ。
 いずれにしろ何かのついでに立ち寄ったらええねん。

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風と扇風機

2021-08-31 17:49:00 | いずれ日記
 扇風機をつけると風が吹いた。
 風は髪をなびかせたり本のページをはたはたと言わせたりする力があって、辛うじて立っている人形などはそれによって倒れもするが、その力を利用して涼しげな音を鳴らす風鈴は実際に体温を下げずとも、いくらかは人の心を涼しく打つものであり、それはどこか優しい人のささやきにも似ているところがあるにせよ、扇風機の立てる一定の音を耳障りに思う向きがあるということも事実だ。
 いずれにしろ風は歌の中では主役であり、風を心地よく思える時にこそ生きていることに感謝することを忘れずにいたい。

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眠れないのは眠りたい時

2021-08-24 04:42:00 | いずれ日記
 作業中に眠くなった。
 眠りは生命の活動を維持するために欠かせないものであるとされ、リラックスした状態で眠る時は大の字になって眠ることが多いが、目覚めるまでの間の何時間置きかに寝返りを打つことも必要であり、通常は6時間から8時間が目安であるとされているものの、それには個人差もあり非常に短い時間の睡眠でも全く問題がないという人がいることも確かで、眠りの間にみられる夢の中では過去に経験した多くの記憶が整理され新しい再生が試みられるが、人によっては眠りの中でみた夢の断片を持ち帰って、朝にはそれを題材にして物語として書き起こすことがあり、それらは夢物語という一定のカテゴリを形成し日常を照らすことができるが、その一方で十分な眠りが不足した状態では著しくパフォーマンスが低下するということも事実だ。
 いずれにしろ人はいつか永い眠りにつくものであり、そのことはいつも心のどこかに置いておくものであっても、そればかりにとらわれては安らかに生きていくことはままならず、いざそうした眠りにつく際にはもう目覚まし時計をセットする必要なんてないのだと思う。

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