少し留守にすると訪問者は途絶え、人々の関心はその場に限ったものと知る。
700日ばかり続けていた毎日noteが切れて、少し肩の力が抜けた。張り詰めていたものから解放された気がする。続けている間は気づかなかったが、時間に追われているのは確かだったのだ。
(昨日まで頑張ってきたのだから今日も頑張ろう)
日々続けることは有効なモチベーションにはなる。
しかし、ルーティンが強すぎると優先順位が傾いてしまう危険性もあるのではないか。僕はいつも心のどこかでnoteの更新が途切れてしまうことを恐れていたのだ。人が倒れたり死んだりしても、どうにしかしてnoteを開かなければ……。今思えば、そんな必要はどこにもない。(ほとんど馬鹿げたことのように思える)でも、続けている間は、どこか本気だった。一日離れたことで、少し冷静な距離を保てるようになったと思う。
(昨日しなかったのだから今日も別にしなくてもいいや)
そうしてだんだんとnoteから離れていくことも自由だ。
noteを開かなくていいならば、その時間を何か別のことに当てることもできる。空を見上げ、アイスを食べ、YouTubeを眺め、スムージーを飲み、街をぶらぶら歩き、たんたんとpomeraを叩いて空想に耽る。noteのために縛られていた時間を、新しい他のことに有効活用することもできるようになる。そして、またふとした拍子にnoteに帰ってきてもいい。
その時には、前よりも新鮮な気持ちでnoteと向き合うことができるだろう。ある場面では意外な驚きを持って見られる可能性もある。毎朝鳴いている鳥よりも、半年に一度飛んでくるフクロウの方に注目してしまうことはよくあることだ。
決めたからには何が何でもというスタンスにはどこか恐ろしさも感じる。
命というのは、平穏な日常があってこそのものではないか。日常が壊れかけた世界のどこに安全や安心を見出せるというのか。大きなことだけを口にしてディテールに一切触れようとしない人はどこか信頼できない。多くの犠牲を前提として開かれなければならないnoteはないはずだ。
(エッセイは名の通った人の書いたものがよい)
どこかで自分もそのように誤解していた。小説でもエッセイでも全然そんなことはないのだ。小説はどこかに導かれていくという感覚があり、時によっては警戒して読めない場合がある。エッセイはもっと肩の力を抜いて楽な姿勢で読める。エッセイにはエッセイの魅力があるに違いない。
『いやいや私はその辺の普通の人が書いたエッセイが好きなんだ』
これは僕が数年前にnoteを読んでいる時、偶然目にしたある人の言葉である。
(誰だったのかはもう思い出せないけど)
僕がエッセイを書こうとするのも、その言葉が心のどこかに残っているからかもしれない。その時には、それほど深くは受け止めなかったが、どうやら今頃になって響き始めたようだ。
僕も、
どこかでそのような存在でありたい。
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