眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

幻の手筋

2019-06-07 02:40:22 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 雨の中を一人、傘も鞄も持っていない。行くあてもないように、足取りは不確かだった。こんな夜更けにどうして……。

「行くところがないの?」

 声をかけたのは、彼女の顔が濡れているように見えたからだった。

「だったら何なの? 何か用なの?」

「そうじゃなくて、何か困っているように見えたから」

(僕の鞄もちょうど空っぽなんだ)

 すれ違うのも何かの縁と思い、家に連れ帰った。鍵を開けて、誰もいない部屋に明かりをつける。両肩を抱いて、彼女は震えていた。

 シャワーを浴びさせている間、警察に通報する。

「河童を保護しています。今、家にいます」

 それは義務なのか裏切りなのか、自分でもよくわからなかった。

「つらいことがあったの?」

「それはそれなりに」

「人並みに?」

「他人のことは、よくわかりません。私は今まで、自分でしかいたことがなかったから」

 コーヒーカップの中で、スプーンを回しながら、僕は笑った。

「おかしいですか? 私は」

「いや、僕が勝手に、おかしいんだよ」

 誰かがドアを四回叩く。

「いま通報がありました」

 ああ、僕だよ。

 警官は、何か手紙のようなものを開いて、僕の目の前に突き出した。それから許しもなく上がり込んで来ると、彼女の濡れた頭にタオルを被せた。

「怖かったね。もう大丈夫だよ」

 

 

 

正しく続く姿勢は、いつかは夢へと傾くことになっている。自分を無理に運ぼうとしてはならない。僕は屋上で眠りに向かって行く人だ。世界と隔離された、疎ましい干渉の届かない場所。ただ緩やかに白い雲だけが流れて行く。何も生み出さない。眠りのためだけに、そこはある。人のいない大きな空をいつまでも眺めている内に、自然とまぶたは重くなり、あと少し。入り口のドアは、ほとんど開きかけている。試みは間もなく成功する。小腹が空いたと虫の知らせ。雲の流れに胃腸が刺激を受けたのだ。体は起き上がると屋上ランチの扉に向かう。ワンプレートにきれいに盛られた料理。作戦は失敗だ。僕は肉団子に手をつける。ご飯に手をつける。ミニトマトに手をつける。プレートの片隅に、小柄なおじさんが座って監視している。僕は漬け物に手をつけて、ご飯に手をつける。

「南瓜は食べないのか?」とおじさんが聞く。僕は南瓜に少し手をつける。「うまいか?」僕はミニトマトに手をつける。「卵焼きは食べないのか?」おじさんはずっと監視している。僕は言われた通りに食べたくはないと思った。「味はどうだい?」プレートに載っている人に、感想を言いたくはなかった。僕は漬け物に手をつけて、ご飯に手をつけた。少し箸を置いて、お茶を飲んだ。

「最近、作文は書いてるの?」おじさんは、突然話を変えた。なぜか少し、安心した。僕は卵焼きに手をつけた。南瓜に手をつけた。漬け物に手をつけて、ご飯に手をつけた。「どんな時に、書いてるの?」話が逸れている間に、どんどん口に運んだ。味はみんな悪くなかった。

「君、仕事してるの?」

「辞書ならよく引いています」

 順調な箸の運びに流されて、うっかり答えてしまった。

「それは仕事なの?」

 なんだよあんたは、親でもあるまいし……。

 

 

 

 激しい強襲をかけて、王様を裸同然の姿にした。とても生きた心地はしまい。少なくとも、僕が反対の立場だったとしたら、とても生きた心地はしないだろう。どうやって凌ぐかを思案しながらも、体の震えを止められないはずである。あれほど強固にできていたはずの城の作りもすっかり壊れてしまい、普段は側近について離れることのない将も、今では遠く離れてしまっている。何を頼りに、守りの形を構築すればいいというのだろう。僕には皆目見当もつかず、名人を倒す時間が現実的に近づいて来たと思えると、もう少しで笑みさえ零れてしまうところだった。けれども、幾度も修羅場を潜り抜けて来た名人が前に座っているのだと考えると、自分の判断はどこかに大きな穴があって、今からそれを思い知らされる恐ろしい出来事が待ち受けているような嫌な予感がした。たとえ裸同然の王様だとしても、僕の攻撃はそれを完全に覆い尽くすほど厚くはない。もしも何か特別上手い手があって、攻めが途切れてしまったら……。徐々に攻めは細く寂しくなっていき、最後には攻め手を失ってしまうのかもしれない。一瞬顔を上げると名人はとても落ち着いて見え、裸の王様を抱えてその行く末を心配している将のようには見えなかった。

 名人は風をつかむような手つきで、どこからともなく取り出した黒い駒を、そっと盤の上に置いた。

 二手指しか? 一瞬、そのように思った。

 二つの升目に、二つの駒を同時に置いたからだった。

 

(親子ボタン)

 

 それは滅多に見ることのない、幻の手筋だった。親子ボタン……。胸の中で、僕はつぶやいた。(親子ボタンは二つでセットになっているのだ。江戸時代に考案された手だが、今まで現実の棋譜の中に現れたことは一度もない。なぜなら、誰かが指すよりも速く歴史の方が流れ過ぎたためだった。歴史とは、名人のうつろいそのものだ)

 知らなければ、決して指せない手。そして、唯一、この状況で裸の王様を救える手。

 親子ボタン……。それは御椀と蓋のようなものかな。初めて目にした駒の前で、僕は震えていた。取ったとしても使えない。親子ボタンとは、そのような駒、そのような手筋だった。数的不利は一気に解消され、王様は裸であるに等しくても、大草原を楽園にする自由を手にしていた。気ままな王様の疾走を止める手立てがあるとはとても思えなかった。

 名人はそれを知っていた。そして、僕は、名人の手によって親子ボタンを知ったのだった。

 

 


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