年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

新春<4>船岡城址

2011-02-01 | フォトエッセイ&短歌
 竹駒神社から4号線を約13㎞下った白石川南岸の船岡城址公園に立ち寄る。
 陸奥仙台藩(せんだいはん)の初代藩主:伊達政宗(だてまさむね)は秀吉・家康の全国統一には欠かせない最後の戦国時代の武将である。それは、統一戦争に伊達政宗の軍事力が決定的な役割を果たしたという事ではなく、疱瘡(天然痘)により右目を失明し「独眼竜」という異形の風貌からでもない。生誕から死去に至るまでの波瀾万丈の人生に秀吉・家康の統一戦争が絡まっていたからである。
 政宗死してなお仙台藩は伊達騒動(だてそうどう)というお家騒動を繰り返して波瀾は続くのであるが、1671(寛文11)年の寛文(かんぶん)騒動で一連の伊達騒動も終わる。
 伊達騒動の主役の一人である原田宗輔(はらだむねすけ。通称:原田甲斐(はらだかい)の居城・船岡城(ふなおかじょう)は、宮城県柴田郡柴田町大字船岡字舘山(四保山)にある山城である。

<現在は船岡城址公園となっていて公園内には約千本の桜がある花の名所>

 船岡城の原田家は仙台藩の宿老を勤める重鎮の家柄で寛文騒動の当事者・原田甲斐も奉行として辣腕を振るう。仙台藩の骨肉を争うお家騒動は長く続いていたが、極め付けがこの寛文騒動である。
 第3代藩主・伊達綱宗(だてつなむね)は若年で暗愚、酒色に溺れたとして幕命により21歳の若さで隠居させられた。そこで4代藩主・伊達綱村(だてつなむら)が、わずか2歳で家督を継承し、第4代藩主に就任する。正宗の曾孫である。
 綱宗の隠居をめぐる家臣団の壮絶な闘い、4代藩主である2歳の綱村藩主をめぐる権力争いとお家騒動の原因は幾らでもあり、すでに家臣達の確執は絶える事がなかった。
結果的には、綱村の大叔父・伊達宗勝(だてむねかつ=伊達政宗の十男で一関藩主)が仙台藩の実権を掌握し、原田甲斐(宗輔)も宗勝と共に藩権力の集権化を行い、地方知行制を主張する伊達宗重(だてむねしげ=涌谷城(わくやじょう)らと対立した。

<船岡城本丸跡に建つ伊達騒動を愁うような船岡平和観音は24mある。>

 この対立は伊達藩の存亡の危機にまで発展し幕府の仲裁を仰がなければ収集がつかなくなる。1671(寛文11)年3月には大老・酒井忠清邸で酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で2度目の審問が行われた。
 大まかな図式は2歳の綱村藩主を擁立して藩政を握った伊達宗勝・原田甲斐(宗輔)とその専制を憂う伊達安芸宗重(だてむねしげ=涌谷城(わくやじょう)・柴田外記朝意(しばたとももと=米谷城主)と古内志摩重如(国家老)である。

<船岡城跡から城下を望む。阿武隈川に流れ込む白石川がゆったりと流れる>