七 河の話とファド(続き)
公園前のホテルのロビーは、天井が高く、通りに面した窓はショーウィンドウの様に大きなガラス張りになっている。ロビーに源太郎は降りて来ていた。約束の時間にはまだ間がある。ロビーの中央のバールで、グラスビールを頼み、カウンターで飲みながら道路を渡り公園に向かう人波を眺めていた。
観光客のグループは必ず一人がマップを持ち、指を指し仲間を誘導している。そして指の方向には、黄金の塗料に輝く、一度見れば、もう結構という像がある。なんて音楽家だったか、どうでもいい事だった。ガイドブックに掲載されたその像の前に多くの人垣が出来て、落胆の声が聞こえる様に思えた。シンガポールのマーライオンや、札幌の時計台の様に期待を挫いてくれる。それでも、高知のはりまや橋ほどひどくないので、とホフォローしても事実は変わらない。
二杯目のグラスビールがなくなった頃、絵理香はロビーに降りて来た。すでに約束の時間は過ぎていた。
「お待たせ。待った」
「いや、待つ気はないよ。そろそろ出掛けるところだった」
「いきなり嫌みなの。15分遅れただけじゃないの」
「電車なら、すでに出発だよ」
「ここは、日本じゃないし、電車は何時も遅れているでしょ」
こいつ、「ごめんなさい」がなぜ言えないと思いつつ、源太郎はカウンターにチップを置いて振り返った。
ドレスアップした絵理香は、ドキっとするほど美しい。
「時間掛けてこの程度かよ。だったら、さっきの女性を誘った方が良かったかな」源太郎はその気持ちがばれないようにあえて言葉を変えた。
「あらそうなの。かわいいでしょ」と身体を半分捩り、ロングスドレスの斜め後ろの腰の線を源太郎に見せた。彼女の言う「かかわいい」という表現は理解できないが、本当に綺麗だ。そして、アップにした黒髪が長身の彼女を引き立てている。源太郎は改めて絵理香を年甲斐もなく、いい女だと思った。
「さあ、行こうか」入り口のドアが開き、源太郎にエスコートされ、彼女が表に進むと、ホテルマンはタクシーを車寄せに誘導し、車のドアに手を添えて、絵理香を乗り込ませた。絵理香は、スカートの裾を気にしながら、長い綺麗な足を車内に収めた。源太郎は運転手に「Loca」という店の名前を告げると、直ぐに車は走り始めた。
店は近いが、ロングドレスの彼女を歩かせることなどできない。そして程なくして、車は白を基調とした店の前に止まった。
車から出てきた絵理香は、店灯りに照らされたように一際輝いて見える。通行人は立ち止まり彼女に視線を向けているのがはっきりわかる。彼らは皆、絵理香を「綺麗だ」そう思っているに違いない。
予約をしていたが、席の希望を告げていない。智子ときた時は、窓際から二つ目だった。店のオーナーは、絵理香を見て、樹々がみえる特等席に案内し絵理香の椅子を引いた。絵理香はドイツ語でなく「Merci beaucoup」とオーナーに微笑みながら答え、席に座る。店の中でも視線が痛いほど絵理香に注がれている。焼き鳥の彼女とはまったく別人になっている。そして、女優のように、立ち振る舞いがこなれているのに見とれていると、「何か」と言う顔をして絵理香は源太郎を見た。絵理香は、「私の本当の姿がわかったでしょ」と言いたげに微笑み返した。この時、源太郎の敗北は決定的になった。
ワインが運ばれ、オーナー自らサービスに努めている。
「あなた、ステキなお店ね」「ああ」
上機嫌な絵理香を見ていると、源太郎は不思議とそこに智子がいる様な錯覚に陥った。そして、「あなた」と言う絵理香の声さえ、智子の様に思えた。
「何を考えているの。奥様との思い出の店だから、その時の事考えていたんでしょ」
絵理香は、グラスを掲げて、源太郎を現実に戻そうと思ったが、それ以上、深入りはしなかった。
「すまん。ちょっと考え事していた」
「いいのよ。私、女優になった気分。さっき、通りすがりの男の人が、手を振ってくれたので、小さく、グラスをあげ、挨拶したの。私、魅力的なのかな」
「ああ、綺麗だよ」と源太郎は正直に答えてしまった。絵理香はその言葉だけで、思い出に浸っている源太郎のすべてを受け入れられると悟り、「ありがとう。うれしいわ」と素直に答えた。
ファドの店は近い。「大丈夫か」と絵理香の手をとり、石畳にハイヒールが取られる事がない様に源太郎はサポートに徹した。絵理香は時折、強く握り返し、バランスをとっている。そういえば、手など握った事も無かったし、こんなに近く彼女と接した事など無かった。
店に入ると、源太郎は女将に挨拶すると、彼女は懐かしがり、柱脇のプライベートが確保できる席に案内した。そして、飲み物が運ばれて程なくすると、店の計らいで、Barco Negro と言う名曲の歌が始まる。この曲は Amalia Rodriguesの歌で、智子が好きな曲で、源太郎がこの地で初めてファドに触れた曲だった。
ファドは暗い。酒蔵のようなこの空間に、悲痛な心の叫びがつたわってくる。隣の国なのにスペインのフラメンコに比して、ポルトガルの曲はあまりにも物悲しい。そして、ギターラの響きがその気持ちをさらに高める。源太郎は元々タンゴが好きだったが、智子に教えられたファドは智子と同じように好きになった。
絵理香は、一言も発せず、歌い手の絞り出す声を聞いている。その目に、テーブルの蝋燭の炎が反射していた。絵理香はそっと、源太郎の手を握り、源太郎もそれを許した。
公園前のホテルのロビーは、天井が高く、通りに面した窓はショーウィンドウの様に大きなガラス張りになっている。ロビーに源太郎は降りて来ていた。約束の時間にはまだ間がある。ロビーの中央のバールで、グラスビールを頼み、カウンターで飲みながら道路を渡り公園に向かう人波を眺めていた。
観光客のグループは必ず一人がマップを持ち、指を指し仲間を誘導している。そして指の方向には、黄金の塗料に輝く、一度見れば、もう結構という像がある。なんて音楽家だったか、どうでもいい事だった。ガイドブックに掲載されたその像の前に多くの人垣が出来て、落胆の声が聞こえる様に思えた。シンガポールのマーライオンや、札幌の時計台の様に期待を挫いてくれる。それでも、高知のはりまや橋ほどひどくないので、とホフォローしても事実は変わらない。
二杯目のグラスビールがなくなった頃、絵理香はロビーに降りて来た。すでに約束の時間は過ぎていた。
「お待たせ。待った」
「いや、待つ気はないよ。そろそろ出掛けるところだった」
「いきなり嫌みなの。15分遅れただけじゃないの」
「電車なら、すでに出発だよ」
「ここは、日本じゃないし、電車は何時も遅れているでしょ」
こいつ、「ごめんなさい」がなぜ言えないと思いつつ、源太郎はカウンターにチップを置いて振り返った。
ドレスアップした絵理香は、ドキっとするほど美しい。
「時間掛けてこの程度かよ。だったら、さっきの女性を誘った方が良かったかな」源太郎はその気持ちがばれないようにあえて言葉を変えた。
「あらそうなの。かわいいでしょ」と身体を半分捩り、ロングスドレスの斜め後ろの腰の線を源太郎に見せた。彼女の言う「かかわいい」という表現は理解できないが、本当に綺麗だ。そして、アップにした黒髪が長身の彼女を引き立てている。源太郎は改めて絵理香を年甲斐もなく、いい女だと思った。
「さあ、行こうか」入り口のドアが開き、源太郎にエスコートされ、彼女が表に進むと、ホテルマンはタクシーを車寄せに誘導し、車のドアに手を添えて、絵理香を乗り込ませた。絵理香は、スカートの裾を気にしながら、長い綺麗な足を車内に収めた。源太郎は運転手に「Loca」という店の名前を告げると、直ぐに車は走り始めた。
店は近いが、ロングドレスの彼女を歩かせることなどできない。そして程なくして、車は白を基調とした店の前に止まった。
車から出てきた絵理香は、店灯りに照らされたように一際輝いて見える。通行人は立ち止まり彼女に視線を向けているのがはっきりわかる。彼らは皆、絵理香を「綺麗だ」そう思っているに違いない。
予約をしていたが、席の希望を告げていない。智子ときた時は、窓際から二つ目だった。店のオーナーは、絵理香を見て、樹々がみえる特等席に案内し絵理香の椅子を引いた。絵理香はドイツ語でなく「Merci beaucoup」とオーナーに微笑みながら答え、席に座る。店の中でも視線が痛いほど絵理香に注がれている。焼き鳥の彼女とはまったく別人になっている。そして、女優のように、立ち振る舞いがこなれているのに見とれていると、「何か」と言う顔をして絵理香は源太郎を見た。絵理香は、「私の本当の姿がわかったでしょ」と言いたげに微笑み返した。この時、源太郎の敗北は決定的になった。
ワインが運ばれ、オーナー自らサービスに努めている。
「あなた、ステキなお店ね」「ああ」
上機嫌な絵理香を見ていると、源太郎は不思議とそこに智子がいる様な錯覚に陥った。そして、「あなた」と言う絵理香の声さえ、智子の様に思えた。
「何を考えているの。奥様との思い出の店だから、その時の事考えていたんでしょ」
絵理香は、グラスを掲げて、源太郎を現実に戻そうと思ったが、それ以上、深入りはしなかった。
「すまん。ちょっと考え事していた」
「いいのよ。私、女優になった気分。さっき、通りすがりの男の人が、手を振ってくれたので、小さく、グラスをあげ、挨拶したの。私、魅力的なのかな」
「ああ、綺麗だよ」と源太郎は正直に答えてしまった。絵理香はその言葉だけで、思い出に浸っている源太郎のすべてを受け入れられると悟り、「ありがとう。うれしいわ」と素直に答えた。
ファドの店は近い。「大丈夫か」と絵理香の手をとり、石畳にハイヒールが取られる事がない様に源太郎はサポートに徹した。絵理香は時折、強く握り返し、バランスをとっている。そういえば、手など握った事も無かったし、こんなに近く彼女と接した事など無かった。
店に入ると、源太郎は女将に挨拶すると、彼女は懐かしがり、柱脇のプライベートが確保できる席に案内した。そして、飲み物が運ばれて程なくすると、店の計らいで、Barco Negro と言う名曲の歌が始まる。この曲は Amalia Rodriguesの歌で、智子が好きな曲で、源太郎がこの地で初めてファドに触れた曲だった。
ファドは暗い。酒蔵のようなこの空間に、悲痛な心の叫びがつたわってくる。隣の国なのにスペインのフラメンコに比して、ポルトガルの曲はあまりにも物悲しい。そして、ギターラの響きがその気持ちをさらに高める。源太郎は元々タンゴが好きだったが、智子に教えられたファドは智子と同じように好きになった。
絵理香は、一言も発せず、歌い手の絞り出す声を聞いている。その目に、テーブルの蝋燭の炎が反射していた。絵理香はそっと、源太郎の手を握り、源太郎もそれを許した。