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欧州珍道中(その2)

2013年05月08日 | 旅行の話
注)20年前の旅、現在とは異なっている点が多い。
我々はオフ日を利用して、ユングフラウヨッホに向かった。好天にめぐまれ、氷河にけずられた教科書どおりのU字谷は素晴らしい。オーストリアからスイス周辺の送電線は、緑色の迷彩色で塗装されている。日本のようにただ茶色に塗装するのとは異なり、季節柄もあってのことか、環境にとけ込み非常によい。アイガーとユングフラウの大パノラマは、生涯忘れることの無い景色である。
登頂証明が渡された。といっても登山電車が運んでくれたのだからあまり名誉なことではないが、その証明を見ると、氷河の雄大さと、寒さとそして空気の薄さの感じが込み上げてくる。ロッジの窓辺にはゼラニュームの草花が咲き乱れ、真っ青な空と木々の緑が目の中に飛び込んでくる。登山電車は世界中の観光客をどれだけ運んだのだろう。下りの急勾配を鉄の軋む音を響かせて谷底に降りていく。谷底の駅に降りると、しばらくバスに乗りかえるまでに時間があった。切り立った岩山の遥か上方から、白い水飛沫を上げて落ちてくる滝があった。 翌日、彼と別れてジュネーブを訪問した。途中のアウトバーンには、コンクリート擁壁にラスをはり、フラワーポットから蔦を這わせた緑化工法が多くみられ、非常によい景観を作り上げている。また、擁壁の水抜き穴の出口部にもポットをつくり、草花を植えているのである。毎夜の疲れと彼から解放された喜びが湧いてきた。レマン湖の大噴水を見て乗船した遊覧船では、湖面を吹き渡るさわやかな風に頬をうたれ、熟睡し、同行の奥様の「着きましたよ」との優しい声で深い眠りから覚めた。そこは出発した船着き場であった。 いよいよ、国際学会。内容なんて半分も理解できるものでもない。人間観察が最も楽しい時間だった。彼は真剣に同時通訳のイアホンを付け、各種の言語のセレクトボタンを押しまくっている。「なんだ。日本語がないのか」とポツリ。外人と言うのは不思議な人種である。会議が終わりに近付いた途端、外国人(我々こそ外国人なのだが)出席者のほとんどが突然退席をはじめた。議長がまとめのスピーチを行っている最中である。これは、習慣の違いだろうか、はたまたコーヒーが飲みたかったのか。ロビーのバスケットに盛り上げられた青く小さなリンゴは瞬く間に彼らの胃袋に消えた。 帰国に向け移動が始まる。ベルンからフランスが誇るTGVに乗るためホテルをバスで出発し、バレーコンテストで有名なローザンヌに向かった。ローザンヌは、坂道が多い。駅前のロータリーは平らなところが無い。ここからフランスのリオン駅まで最大速度300km/hのTGV新幹線にのることになった。ベルンはドイツ語圏であるが、ここはフランス語圏である。30分すぎたころ、私服の警察官が威圧しながら、パスポートを確認していく。車窓からみる景色は、ヨーロッパそのものであるが、新幹線はさほど速く感じない。昼食は、車内でとった。ワインの酔いがまわる頃、新幹線はフランス領内の平坦な地形に入り速度を増す、しかし対象物がないのでやはり速度は感じない。酒でも飲ませて速度上げれば乗客の不安はないようにしているのかもしれない。 パリは暑い。摂氏30度。スイスの快適さと、渋滞のない車の流れを見てきた我々は、パリは雑踏の町にしか見えない。その夜、ムーランルージュの硬い肉と格闘し、素晴らしいショーを堪能して就寝。いよいよ明日一日となった。半日仲間との行程から離脱し、リュデバックの修道院を訪ねる。その後、一人の散策は始まった。午後ホテルに帰ると、また彼の声がした。「何処に行っていた?」「修道院」と答えると一笑された。
「ここまで来て懺悔するとは、余程罪深い生活をしているのか」と言い、続けて「今夜はどうなっている」といつもの会話が始まった。「明日の帰国を前に、フルコースの夕食会」と答えると、「ムーランリュージュのような不味い料理ではないだろうな」と念をおされるが、私の知ったことではない。「違うと思いますよ」と答えると「そうか」といって頷いた。高層の展望レストランからはパリ市内が一望でき、放射線状に伸びた道は、クモの巣のように規則正しく、中央に凱旋門が鎮座している。閉口するチーズの匂いに圧倒され、不慣れなフルコースを味わった。(完)
次回はフィリピンの旅かな?



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