「源太郎と絵理香」登場人物や設定はすべて架空です。
ガリ版刷のわら半紙が月曜日の午後に配られた。綺麗な字は、少しかすれているが、絵理香の字は読みやすく、野呂のものより格段に上だ。野外学習は水曜日と決まった。
ラジオから聞き取った天気予報は大丈夫そうで、源太郎は安心した。三十分早めたいといったが、学校の都合で出発は十時となった。持ち物や服装は丁寧に書いてある。男たちには、平鉈やモリなどを持たせ、女たちには何も持たせない事にしてある。救急箱は、先生に借りて、信頼できる男に持たせるように計画した。
問題は草履をどうやって準備するか困った。生徒は全部で三十四人、そのうち源太郎がしっている草履を編むことが出来る婆さんがいる家は、八軒しかない。しかし、源太郎は千鶴子に何とかすると言ってしまった。
家に帰ると、婆さんにこの事を話した。婆さんは、「今日、念仏講があるので仲間に話してみる」と言ってくれ、シワだらけの顔が生き生きしていた。百姓作業も用済みの婆さん達にとって、孫の一大事で、それも学校の校長先生の頼みだというではないか。しかも、婆さん達にしか出来ない事だ。
その夜。お堂に集まった婆さん達は、お念仏はどうでも良く、源太郎の婆さんの仕切りで藁草履の製作談義が始まった。草履を編めるといっても実際に出来る人数は五人しかいない。それも、源太郎の婆さんのように器用な人は三人だった。しかも明日一日しかない。
「ヨネさんとトメさんは揃った藁を頼みます。木槌や道具は全部ある。明日の朝から作るよ」と言って、婆さんは家に戻り、源太郎に「任せておけ」といった。そして、古い布切れを囲炉裏端に持ってきて、細く割いて鼻緒に巻く布を作り始めた。普通、源太郎が履く草履の鼻緒は藁だけだった。手の混んだ代物を婆さんは作ることにしたのだと思った。爺さんは、土間でいい藁を見繕い、揃え始めた。それは夜更けまで続いた。
源太郎が起きる頃に、庭先が賑やかになっていた。婆さん達は庭に、むしろを敷き広げ、もう、細い紐状の縄を撚っている。右膝に出来上がった紐を挟み、引っ張りながら、新しい藁を数本取っては手のひらを匠にすり合わせ撚っている。その早さと言ったら、すごい。作ることは出来るが慣れていない婆さん達は、見様見真似でやっているが、三人の早さには到底及ばない。
学校に行くと、男友達は明日の事で盛り上がっていた。普段なら、一緒に騒いでいる源太郎だったが、草履のこともあり騒げなかった。それより、明日の説明をどうやってやるか気になっていた。
「源太郎君。おはよう」と絵理香が声をかけた。
「ああ。おはよう」
「父がね。小屋の脇の山葵を一株づつ持って帰っていいと言っていたわ。採っていいって」
「あれは、三年物だよ」
「わからないけど、先生たちにも採ってもらいなさいと源太郎君に伝えてと言われたの」
「解った。それは女たちに頼もう。それで時間が按分出来る。男たちの時間が取れる。木屋の隣の田だな」
「そうよ」絵理香は源太郎に少し元気が出たのに気づいた。
源太郎は、遊びは知っていたが、街場の先生たちにどんな話をしていいか悩んでいた。絵理香の親父の助け舟で、少し間が持てると思った。
夕方、源太郎の爺さんが背負子に藁草履を付け学校に持って来た。用務員は、千鶴子に連絡して迎えに出た。其処には人数分を越える真新しい草履があった。爺さんはそれを渡すと、丁寧に頭を下げ帰ろうとした。千鶴子は呼び止め、校長先生を呼んでくると言ったが、爺さんは「畏れ多い」と言って帰っていった。千鶴子はこの田舎の人達は学校に勤めている自分たちを聖職者の様に思っている事に改めて驚いた。
源太郎は、自宅に帰ると、囲炉裏端でお茶をしている婆さん達に、お礼を言った。婆さん達は「久しぶりに面白かったよ」と言って笑っている。そしてトメさんが、「源ちゃん。お前、大関の絵理ちゃんと仲いいらしいな。明日は先生役だって言っていたよ。まあ、しっかりやんなさい」と言った。村は狭い。すべてが伝わっている。今回は悪いことではないので、少し安心したが、絵理香とのことを婆さん達から言われるとは思わなかった。
朝、お袋が弁当を作ってくれた。と言っても握り飯と僅かなおかずを、ハランの葉で包んだ質素なものだが、それで十分だった。そして大きめな空き缶を何時もの様に二つ麻袋に入れて、学校に向かった。朝礼が終わり、一時間目の国語の授業を上の空で聞き流し、終わると、直ぐに校庭に集合した。男たちはもう今日はこれが全てだと思って集まっている。
千鶴子が、朝礼台に立ち、注意事項を述べている。そして、今日は源太郎と絵理香の指示に従って行動する様に最後に言った。誰もそれには異論はない。男たちは源太郎の指示に従えば楽しい時間になると思っているから、問題無かった。校長は何も言わず、ニコニコしているが、野呂だけは、列が乱れていると言って、ぶつくさ文句をいて、ガニ股歩きで肩を揺らして歩いている。学校を出れば、野呂はついて来ない。暫くの辛抱と皆思っていた。千鶴子は、束になった草履を朝礼台に置き、これは地域のお婆様が作ってくださったといって、各自一足づつ持つように言った。校長も大きさを見て一つ取った。
千鶴子が「出発しましょう」と言って、源太郎と絵理香が先頭になって、歩き始めると、校長は二人に近づき、「良くやってくれました」といい、「頼みます」とも言った。そして「藁草履は始めてです。お婆様に宜しく言って下さい」と源太郎に言った。源太郎は、丁寧に話しかける校長に、ただただ、頷いていた。
絵理香の家の前に着くと、母親が校長と千鶴子に頭を下げて何やら話した。源太郎は「これから山道だから、足元に気をつけて」と女たちに告げた。男たちは、源太郎の男友達に連れ立って、道を上がって行った。少し遅れて校長と千鶴子も登った。そして小高い平場に着いて小休止した。男たちは早く登りたかったが、授業だし、校長もいるので腰を降ろして、休憩が終わるのを待った。
「皆さん。ここで源太郎君から、山葵田の話をしてもらいます。皆さんはその話を聞いて、金曜日までに感想文を出してもらいますから、しっかり聞いて下さい」と休憩の終わりがけに、千鶴子が言った。それを聞いた皆は、「ええ」と発した。校長が「感想文を楽しみにしています」と付け足したから、もう誰も何も言わなかった。源太郎も聞いていなかったので、絵理香に聞いていたかと聞くと、絵理香は聞いていたと答えた。