部屋にはトスカーナのコンサートでの歌声が流れている。
もうヨーロッパは秋も終わり、ワインの新酒もすでに出回り、そしてノエル一色の世界になっているだろうと写真を眺めながら時間を楽しんでいる。(フィルムにゴミが・・・・涙)
ちょっと胃が痛くてここ二日ほど胃薬を飲んでしのいでいるが、まあ仕方ないことと諦めている。「病院に行ってきたら」とMihoちゃんは言うが、飛行機と医者(注射)ほど嫌いなものはない。だから「我慢」これに限る。夏目漱石が「胃潰瘍」で苦しんだように、人間どこかに病はあるので、難しい検査をされて、理解できない病名を言われても余計に病気になりそうで、病院に行かない方が健康なのだと思っている。
昔、脳のMRIをとって「源太郎さん。脳みそは入っていますよ」と精一杯のジョークを言った医者がいた。「当たり前だ。量の大小はともかく・・・」、「こちとら病気の検査だよ。もし脳がなかったらどうしてくれる。八丁味噌でも注入して直せるのかよ」
ところで、欧州の小さな街を歩くと、ワイングラスをテーブルに置いて談笑している人たちがいる。それが似合うし、それが風景の一部として違和感がないから不思議だ。そしてこの秋の終わりになるとセピア色の町並みに溶け込んでいる。
日本だって、「日本酒」の文化がある。ところが最近はワインを飲む機会が多くなったように思う。お祝い事もシャンパーニュやワインが乾杯に用いられ、そこに参加した人たちも違和感なくそれを受け入れている。そしてあのワインを表現する訳のわからない意味不明の講釈に頷く諸氏もそこにいる。
源太郎の友人にも、ワインを口にした途端、何か言いたくてたまらない男もいる。かと思えば、「これが美味いのか」と首を傾げる人もいる。「ワインに満ち足りた喜びを表す」なんてことは源太郎にはできない。日本酒なら「美味い」この一言で十分だし、唇が必然的に盃に近づいていくのだ。それは今は死語だが「二級酒」で十分な時もある。
だけど、こんなことを言う男もいる。「本当の意味でワインの表現とはそんなものではない。飲んで自然に沸き起こってくる感動だ。それは音符と同じで表現の一つだ」と言うのである。
「馬鹿らしい」、「美味い」だけでいい、飲んだ相手がどんな感想を持とうと「不味ければ不味い」それでいい。「凝縮した味わいで、丸みを帯び、平坦な草原のようだ」なんて単語を並べた評論なんて聞きたくもない。
富士山麓で演習なのだろう。大型の輸送機が低空飛行で何度も往復している。先日は大型ヘリコプターが9機編隊で上空を通過し、今日は高度3000ftくらいだろうか、輸送機が頻繁に往来している。「訓練も大変だなぁ」と思いつつ、「さほどジェットエンジンの音は気にならない」それより、よく綺麗に編隊を組んで飛べるものだなぁと思う。(望遠レンズを使用しなくても機影がはっきり見える)