経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

今ってなんじゃ

2010年03月24日 | Weblog
「今とはなんじゃ」と問われたら
正直言って即答できず戸惑う。

今を見れば、先の盛衰どちらであるかわかる。
朝顔の花を見たい人は朝顔の種を蒔く。
朝顔の花を見たいと思って、向日葵の種や種なら
なんでもいいや、ということにはならない。

このことから、未来が今の行動を決めるという言い方ができる。


たとえば店舗の売り場の話。
今のこの現場が地域や消費者との接点、
過去と将来(さき)との接点を持っているのだから。

今という「点」は、独立した点でなく先の目標を得るために、
そこから今に向かって下ろす線の始点である。


一方、過去を振り返るときの過去に下しつながる線の起点である。
また過去の線の切断点であり、過去と未来を連結している点でもある。


こう考えると、「今」がおぼろげだがわかってくる気がする。

「今」を深く考えることの重要性。
そしてこの「今」、何のために何をしなければならないか。
それは今というその表出された点だけで判断してならないこと。

そうしたことが、ぼんやりとだがわかってきた気がする。

たとえば、その時には多くの人々が評価し賞賛された経営者が
この今は頓挫、悲惨な形で消えているということを思い浮かべてみる。

そのことはまさにその折の「是」とした判断が、
未来がおりてきて「今」になたらば「非」であったということだ。
どちらが正解か。いわずもがなであろう。

その「今」良かれと今に成果をおいてその是非を問うたことが
帰結である未来にとっては、浅はかさで誤りであったことになる。

先ほどの、「花の種」の例で言えば、
将来には朝顔の花を見たいと思いつつ、この今の選択では、
値段が安いとか少なくていいといったの理由で、
別の種を選択したということになる。

将来(さき)を見据えて、といった言い方がある。
キーは、その将来に何を描いているかだが、
どうだろう。
私の場合は、何を描いているかが実に不鮮明であった。

こんな家に住みたいという思いの設計図もなしに、
部品集めに始終していた自分を嗤う。

消費者の立場に立ってといった言い方がある。
キーは、その消費者の何を描いているかだが、
どうだろう。多くの場合は、自分の利や得ではないか
だから、この今やることなすことが消費者に受けない
消費者のだれが、売り手のとって利得を願って購買しょうぞ。

そうした不信が、この「今」の種選択、購買を決めている。


とってにとって

2010年03月24日 | Weblog
物事を判断するには、「基準」が不可欠になる。
だれしも何らかの基準で持って分別し、
判断、意思決定している。

だが、さてその基準が問題だ。

ただその基準がころころその都度変わる人や、
自分の信念、信条でもって不変の基準を持っている人がいる。

前者、後者、その是非の云々は、ここではさておき
よく組織の意思決定で採られている重要性の原則に
ついて考えてみることにする。

たしかに重要性の原則で物事を決めたら
今ある固定された案件なら、これで優先順位がつく。
しかしこれは目の前にある固定されたものの中ということに限定される。

しかも、人により重要性の評価が変わるから、
ここはどうしても「自分にとって」あるいは「自社にとって」
の重要性が優先されると考えるのが常識的であろう。
この「とって」は個人で言えば自分、
組織で言えば上位者の「とって」が優先されることになる。

まだあるかもしれないが、この2つだけでも
大きな、そして極めて重要な問題が生じることになる。

それは上にそって添えるならば、
1に情報はアトランダムに発生するし歯止めがないから、
あくまで時間を切った範囲内での「重要性」であり、
その判断も、あくまでその時点での価値、受け取りであることだ。

2に、「自分にとって」あるいは「自社にとって」の重要性ということが、
その他のステークホルダーにとってマイナス、不利益になることも
多々あるということである。

そのステークホルダーの中にはほぼ例外なく消費者が含まれる。
端的に言えば、その消費者を直接的、間接的に不利益に至らしめれば、
消費者はそうしたことを生じせしめた「自分」ないしは「自社」に対して
どうした反応を示すか、ということである。

その結果の先にJALの「今」といった問題が存在する
と考えたら、わかりやすいのではないか。

畢竟、
自分、自社にとって重要なことを優先し選択するあり方は、
自分、自社にとって長期的にはみてどうなのか、
そのことを考えてみる必要がある、と考える。