経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

ここにも、日本の縮図

2007年08月15日 | Weblog
昨日は、鹿児島県自治会館で、中小企業診断士の先生方の勉強会でお話をさせていただきました。

 参加者は98名。その99%が県内の先生方。この業界もみれば過当競争。格差の世界でもあります。

 その98人中36人が中小企業診断協会の所属ですから、会員加入率37%。この業界も、組織離れが目立つようです。

 テーマは「企業再生に関する新たなる診断手法」でした。欲張って、あれもこれもと準備をしすぎ、時間内に治めるのが一苦労でした。
 いつもは、受講生に話をして、聞いてくれない人たちに苦労している先生方ですが、自分が受講生になると、はてどうでしょうか。客体験にも意義がある。この士(サムライ)業界もまた、お客様があって成り立つのです。

 参加者は、98人中。女性は最前列に、博多からご参加若い先生が一人。男女比率97対1。この業界は、まさに男世界です。それでいて、「これからのビジネスは女性をもっと活用しなくては・・・」といっている。

 年齢は最高が88歳、最低は30代前半。大方が50代以上。この業界は、まさに高齢化なのです。

 「自分の会社も、再生化をはからねばならんな」。口をぱくぱく。お話しながら、そんなことを考えていました。

 革新が流行れば、日本中を革新が走り出す。次は再生がバトンを受けたということですから、再生が日本中を走り出す。

 みんなが再生したら、日本が変わりますかどうか。
 日本の縮図をみた1日でした。

単純に考える

2007年08月14日 | Weblog
 世は、変わるものと変わらぬもののとの2つで構成されています。変わらぬものを押さえていると、変わるものをとらえることができます。列車が並行して、同じ方向へ同じ速度で走っているとお互い停まっているように見えます。こちらの列車が停車、隣の列車が左へ走り出すと、こちらの列車は右へ走り出したように見えます。

 ほとんどの人は、変わるものをとらえようとしています。
原理、本質は変わらないものに属します。ですから原理なり本質を 掴んでいないと、変化は、読みにくくなったり読み誤ったりしてしまいます。

ですから、経営でもセオリーを押さえている人は容易に、変化が掴めます。
では変わらぬセオリーとは何なのでしょうか。難しく考えるから、いけない(いえいえ、私が師に叱られたのです)。私の師、城野 宏先生は、「犬が東を向けば、尾は西。別に尾っぽを見なくても判る」と、教えてくれました。

 私が、威張る人や俺が俺がという人から、えっさっさっさ、と逃げるのは、ろくなことにならない、とこれまでの経験と歴史で学んでいるからです。その対応として、えっさっさすることになります。私なりの危機管理、魔よけなのです。

 難しく考えなければ簡単です。わかることをわかれば、後はわからないことです。それをどうするかは、わかることをまずきちんと押さえてから、ゆっくり考えたらいいのです。
 それを「わからない!」と全部否定する。「何もかもいやになった」と全部否定する。(それは表現の彩で)嘘だと思いますよ。私は。2007/08/10
 

努力は、報いられるものか。

2007年08月12日 | Weblog
企業の支援をやっておりますと、そのほとんどは一生懸命努力されておられる、ということがわかります。よく倒産の理由に、「放漫経営」というのが、あげられますが、たしかに経営者が遊びぼけて、経営を顧みなかった、というのはあります。だがほとんどの経営者は、努力して報いられなかったのです。

 「努力しているのに、なぜだろう」。昨日、こうした疑問へのメールを頂きました。

私のHPのあちこちに、触れていることですが、触れていなくてもそうですが、出来ないことは出来ないし、誤った目的であれば、正しい目的と乖離が出てきますし、誤った方向であれば、努力をすればするほど、目的に遠ざかります。しかも努力すればするほど、その不幸へ早く到達します。

 努力云々とは、関係がないということです。正しい目的、正しい方向なら、努力をすればするほど、努力のし甲斐はあるでしょう。これは事実です。間違った目的、誤りの方向なら、努力をすればするほど、努力のし甲斐はやってこない。これも事実です。

 
 ですが、よく考えたら、出来ることは、出来る。正しい目的、方向へ向かっていれば、時間の早い遅いは別にして、いけます。到達できます。歩いていくことを努力。汗水を垂らしいて頑張って行くことも、1つの方法ではありますが、車で行くこと。他の人におんぶにだっこで、いくといった楽ちんな方法もあります。
 それは、自分の好きな方法を選択すればいいです。

 それは人によって選択の基準がまったく同じではない。人によって価値観が異なるのですから、それでいいのだと思います。

 ですから、ここでは私の場合、それも今のところ、考えていることは、といったおつもりで、聴いていただきたいのです。

 知識ではなく考え方。一過性ではなく体質化、今のためではなくこれからのための今、他力依存ではなく自力、その自力で他力を活かす、内ではなく外、私はそうしたことを頭に置いて、選択なりの物差しにしています。

 換言すれば、知識やノウハウを外に求めるのではなく、自家製を創ることを重んじています。それでもって。外のエネルギーを内に取り込む。これが(私の考えている)本来のあり方、ということです。別の方は、また別のお考えがあっても良いし、偶然同じであってもいい。

 成長すること。大きくなること。こうしたことを否定してはなりません。むしろ望ましいし、そうしたことに対する情熱を、一生失ってはならないと思います。
 
 問題は、上で触れたとおり、「そのためのやり方」です。自分で自分を持ち上げることは、実際のところできません。成長だって自分で成長してように思ってしまうのですが、そうではありません。私たちは、他との関わりで生きている。そうした関わりでもって、いかに自分を成長させるか、企業を大きくさせるか、とアレコレ考え、行動する。その結果、他者が自企業や自分を持ちあげてくれる。
 
これだ、と私は思います。これまた、私には、と前置きするのですが、実のところ前書きは外したい。自分で自分を持ち上げることができないのは、私だけではない。誰でも、といったことで、普遍性がある。
 自分が乗っかっているボードを自分で持ち上げる愚、その自分が自分の身体を持ち上げようと必死に努力しているむなしさ。そうした風景に気がついたとき、私は小躍りしてシメシメ、と思いました。
 
経営のあり方、営業のあり方、自分のあり方が、変わると思いました。いや、本来に戻せると思いました。それから15年、このやり方を提唱しています。
 詳細は、私のHPをパラパラとめくっていただけたら、嬉しいです。メルマガ、読んでいただけたら、これも嬉しいです。

安倍さんに代わりて、敗戦分析

2007年08月11日 | Weblog
「美しい日本、自由で豊かな国、日本を選択するか、民主党の小沢さんを選択するか。それが問われるのが、この選挙です。」

 もし、という言葉がある。
 もし、安倍さんが、こう叫んでいたら、参院選の結果はどうだっただろうか。

 かりに、という言葉がある。
 かりに私に、選挙用のコピーフレーズを、頼まれていたら、私は 安倍さんに躊躇なく、 「美しい日本、自由で豊かな国、日本を選択するか、民主党の小沢さんを選択するか。それが問われるのが、この選挙です。」を、使うように言っていたらどうだろう。

 どれにしようか、何にしょうか、とアレコレ考えることを楽しむ、そうした機能をお客様に提供している場が、お土産品店である。
 そこへ店員が、「安倍川餅と小沢焼き、どちらにされますか」と、アプローチを掛けてきたら、どうだろう。
 せっかく、旅の醍醐味に浸りきっていた客は、「私の選択権を、かってに狭めないで」と不快に思うに違いないのだ。

 安倍陣営は、マーケット理論のイロハすら知る者がいなかったか、何か別の理由あり致命的な大チョンボをやらかした、としか考えようがないのである。

 数日前にUPした、私の「選択の自由は、楽しいこと」とブログに、 みっくんやさしさんが、「今晩は、選択肢の増加が、閉塞感をなくし、自由で 自主的な判断の原点のように思います。お一人、お一人が、個別に気持ちよいですね。
 個別対応は 選択肢を、たくさん 差上げることですね。
 ふと?
 私を とるか この人を とるかと、国民に 迫るから支持率が落ちますね。選択肢がない、自分で選べないという不満、苛立ちが、批判票になったのでは? 内閣改造と選択肢の増加は、関連は あまりありません。 大丈夫かな?(2007.08.07 02:48:15) 」、
 といったコメントを頂いた。

その置き換えの感性に、思わずうなってしまった。
 みっくんやさしさんにはよくコメントを頂いているが、、その度に私自身相当な示唆と頂き、思考の閉塞感を感じた折など、大いに助かっている。心から感謝したい。
(「内閣改造と選択肢の増加は、関連は あまりありません。 大丈夫かな?」、これも意味深です。私なりの解説は、書き上げていますので、折を見て、UPしますが、以下は、本題を続けます。)

 選挙は、民主主義国家である象徴の一つである。選挙が行われない国家、行われても限りなく投票率が100%に近く、一人に集中するといった国家は、民主国家ではない。
 その根底には、選択権がある。それを自分意志で自由に行使できる、といったことは、自由国家以外存在しないのである。

 迷っているお客に、「安倍川餅か、小沢焼きか」と薦められると、迷っているお客は助かる、といった側面もあろう。択一でのアピールにより、その発言者の力強さ、凛々しさを打つ出す効果もあろう。それは、選択権を犯すと、相手が受け取ることがみじんもない、という前提、裏打ちが明快にある場合に有効である。

 だから、ここでもう一度、「もし」を使うとしたら、もしその同じセリフが小泉さんだったどうだったか。
 もっとも、小泉さんなら、「私を選ぶか、旧来の自民を選ぶか」を叫び、「小沢焼き」など、鼻にも掛けていない態で無視をする。無視を装うことで、国民に民主党を矮小化させる戦略を採るに違いないだろう。
 「自民をぶっ壊せ」で、完全に民主党が国民の眼中から消え、月光仮面1人対多くの悪党ども。怪傑黒頭巾対越後屋&悪代官&その他大勢の悪人どもといった構図を自民の中に持ち込み、自問の中に浪花節の劇場を作り、国民を自民に引きつけ、民主劇場をがらがにすることで、その自民を救った。こうした戦略は、戦略の研究を専門としている私からみても、そのハイレベルさとその成果の見事さに、驚愕、感服したことを今でも思い出す。
 だが、私が安倍さんの身近な戦略担当の側近であったとしても、安倍さんに、それをやれ、とは言わない。

 それは、小泉さんとは(器が違うなどと失礼な表現は取らないが)、少なくともタイプと状況が違う。これが理由1.2。

 3に、「AかBか」と、Aが言う場合、それはAが強者の場合。つまり強者の戦略だからである。安倍さんのタイプ、そして置かれた状況からして、強者の戦略ではなく、弱者の戦略を採るべきだったのである。
 それをなぜ、誤ったか。

 これは私の憶測だが、安倍さんは、小沢さんと言うより、小泉さんを意識しすぎたということだ。2代目の経営者に一番の多いケースは、先代を意識しすぎて、打つ手を誤り続けることである。
 安倍さんは、安倍さん。晋三さんでも小泉さんでもない。ましてや小沢さんでもない。小沢さんの戦略に、まんまと乗せられたというのが、今後に尾を引く。
それは国民が、この首相に、いい人だがひ弱い、と受け取ったからである。そんな選挙、そしてその後の風潮のままで、いきなり弱者の戦略はとれない。
これが苦しいところである。

忘却とは、行動しないことなり

2007年08月10日 | Weblog
左腕に、たくさんの発疹ができ、右手を当てると、他の部位と明らかに違いがわかるぐらい熱を持っている。痛くはないが、いたく痒い。

昨日の道路清掃作業で、茂った木の枝葉を下ろしたときに、はぜか漆に触れたらしい。5年ほど前に、同じことでえらい目に会い、こりごりしたはずなのに、まさに「忘却とは忘れ去ることなり(菊田一夫原作「君の名は」である。

 肌は強いと自負の私だけがなぜかぶれる、という理由は、かぶれた後から、考えたら、すぐ判る。「後悔は、先に立たず」、後の祭りである。

 それも市への作業報告に、作業風景の写真を添付していて、気がつく始末。写真を見なくても一目瞭然にきづかねばならないこと。要は、無防備。
 皆長袖なのに、私だけが半袖シャツ。いかに私が、体験が不足しているかが、写真に言い訳できぬ動かぬ証拠として、記録されている。

 判っていること。知っていることでも、現実長袖を身につける、という行動をしていないから、それ、この通り。3日目も赤く晴れ上がった左腕を、がさがさとかきむしる羽目になったのだ。これ、2度目だから、以前の経験が生きていないことになる。

 昨日の会議で、面談した経営者に、「なんで、判っていること。それも金がかからず、すぐ出来ることをやらずに、他に原因を求めるのですか。えぇえッ」、と言ったことは、実は自分も出来ていなかったことになる。恥ずかしい限りだが、2度あることは3度はないよう、ここに記し、反省。
 それにしても、痛い体験、いや痒い体験だ。
   「口ほどに、手足動かず やぶ払い」



当たり前が当たり前か

2007年08月09日 | Weblog
朝、真っ先にパソコンを立ち上げる。立ち上げたら立ち上がるのが当たり前、といったことすら思わない。当たり前のことだから。
 
 朝起きたら平和な日本の朝、と思いこんでいる私たちが、この平和も多くの先達お陰、と思うのは、この8月。今日は広島に原爆が投下された日である。

 10時前には出かけるから、それまでにブログやメールを、とパソコンをスイッチ・オンして、背を向けてスクラップを始めた。
 いつまでたっても、立ち上がりのあの元気の良い声が聞こえない。画面は暗いまま。HDランプはセカセカ点滅しているから、読み込みに時間がかかるのかと、1時間ぐらい放置してみた。がだめ。

 配線、ジャック、電源を全部チェックしたがだめ。
 スイッチオン、立ち上がる。この当たり前のことができないとき、人は何を思うのだろう。少し殊勝な気持ちに、むりやり自分を持っていって、「当たり前のことが、当たり前に」ということが、実は有り難いことなのだが、有り難い(めったにないこと)が、恒常化すると有り難いことに思わなくなっている。
 「これだ」、と思った。

 仕事があることが当たり前。
 今日、飲酒日で飲めることが当たり前。
スイッチオンで、パソコンが立ち上がるのは当たり前。
 おしっこもすしすい(以前より高く遠くは飛ばなくなったが)、当たり前。
 何もかも、当たり前に思っているが、こうしたことを当たり前ではない、人たちも大勢おられる。

平和は、私たちの国では当たり前。だが、あの国、この国では、戦いの日が当たり前で、平和な日が有り難い日なのだ。

有り難いの重みが違う。軽い方が是、思い方が非などとは、誤解を生むから言いたくはないが、自分の心の中で、考えてみるのも悪くないと思った。
パソコンがせっかく作ってくれたきっかけだから。

 一瞬、パソコンドクターへの持ち込みと、その費用をどうして捻出しようかが、頭をよぎったが、全部接続を外し、再接続。2時間。有り難いことに、パソコンは、元気な声を上げて立ち上がった。

 なんだろう、とは思わないことにした。これがなければ、広島の中継も、BGMのごとく、聞き流していたに違いないのだから。

ぼけ、とは、当たり前でないことまで当たり前と、五感が鈍に受け止めてしまうことなのかもしれない。 自分の五感の愚鈍、あるいは退化、怠慢が、物事の見方を浅くしているとしたら、これはパソコンの故障以上の怖いこと。
 こちらの方の修理が先になる。パソコンでは騒ぐのに、こうした「ぼけ」は、当たり前とも思わず、過ごしてしまう。このボケ。私のこと。

選択の自由こそ

2007年08月08日 | Weblog
日曜日のこと。
朝7時から、地域の道路愛護作業。ようは藪の草を払い、道に覆い被さる竹や木を伐採し、溝をさらい、空き缶や瓶やゴミを拾い、といったことだ。熱中症などのトラブルを避けるために7時から始めることにしたのだが、30分も立たないうちに太陽がギンギラギンである。

 それでもけっこう楽しくやれるのは、作業をしながら、あるいは合い間、合い間に、それぞれたわいのない話が出来ることも理由にあろう。外からのぞき込めば、単なるうわさ話をかわしているにしか見えないだろうが、小さな集落では、こうしたことで憂さ晴らしが出来るし貴重な情報交換の場でもある。

 こんな風な理解が、私にも出来るようになったのは、どぼんと自治会活動に入り込んでからのこと。だから偉そうに言えたものではないのだ。 かってはこんなこと自分の仕事からみたら出来るだけ避けたい、無駄なことと思っていたのだから。

 人には、1時間なら1時間、それなりに何にかやることがあろう。たくさんの選択肢があるはずだ。たくさんと言うより無限にある。
 選択肢がたくさんあること自体は、大変に幸せなこと。2のうちから1を選択するより、1999999の中から1を選択することは、幸せでより楽しいことを意味する。
 これが1つ。
 
 赤ちゃんの選択肢は、後者。選択肢の多さは可能性の大にも通じる。
 赤ん坊の行動(選択)はほとんどが、大人から見たら失敗だろう。それでも1つでも当たると、みんなで褒める。それを励みに確率を高めて、大人より遙かに早いスピードで成長している。

 ところが大人になるにつれ、いつのまにか選択肢が縮められ、ときととして奪われている。それは周囲が教えたり、自分で本を読んで失敗を避けるようにした結果でもあろう。

 ここでもう1つ。言えることは、自分で失敗したことを自己受容し得てこそ人は成長するメカになっているという点である。
 ところが大人になるにつれ、だんだんその失敗体験を避ける生き方をしているし、失敗を受容するどころか、認めない、他に振るといったことが多くなる。だから皮肉なことに失敗が、次の行動を臆病にし、成長を抑えてしまう。
 
 またやたらと教えたがる人や、そうした人を乞う人も多い。ちなみに教えたら、教えた人の経験になり、教わった人にしてみれば自分でそれを実践しつかみ取るといった機会を損失するという意味での、成長の阻害要因になる。

 選択には、もうひとつ重要なことがある。
 選択肢が増えても、選択する基準尺度が、自分に確立されていないと、選択したことそのものが、あとから疑問、ということ点である。これが2つ目。

 いや結果的に後から、耳朶を踏み悔しがったことも、長い人生に於いては上に述べたように、失敗から得ることが多々あるから、私は良いことだとは思う。
 但し、その折、その折、自分で確信を持てる基準、尺度があってのことでなければならない。この条件はないと困る。

 ややこしい言い回しだが、その自分で確信を持てる基準、尺度も、未来永劫的に不変と言うことではなく、人の成長につれより高い。そう、より抽象度の高いレベルへ成長していくのだと、わたしは思っている。

 2時間で作業を終え、自治会の定例会へ移る。わたしの代になってからだが、発泡酒など飲み物を用意し、会場ではなく囲炉裏を囲んで、丸く輪になったり、三々五々位置しての雑談形式に変えた。

 何も形式張って、長老を上座に置き、議事進行、まずは挨拶から、といったやりかたをやれという規則もないのに、おもしろくもないやり方を続けている。ここは自治会だ。自分で治めればいいのだ。
 
 最初は、皆とまどっていたが、今日などみな楽しそうに談笑し、その中から決まるものは決まっていく。終わりを決めていない。それぞれ適当な時間、かってに抜けて帰る。残りたい者、飲みたい人は残る。それでも最大2時間ぐらいで、皆帰る。(当然だ12時が来るのだから。)

 いろいろやって選択肢を増やしておくことで、選択する基準、尺度もまたおおらかになり、豊かなふくらみのある選択が出来るのでは、というのが3つ目の、私の考えである。
ルーズであろうと、それもまた選択肢の一つ。それで楽しくなるとしたら、これも一つの基準に出世するかも。



我が著本、古本19位

2007年08月07日 | Weblog


喜んでいいのか、悲しんだ方がいいのか。今朝、気まぐれに私の第一号の出版、「ラーメン店経営のすべて(経営情報出版社)」を検索してみたら、下のような記事に当たった。


  「古書店に関する書籍の売れ筋ランキング_Amazon扱い」
 田上 康朗. 経営情報出版社. 990. 1985-05. 19位. 外為取次推進マニュアル?取次店の取引フローと取次業務のポイント (1985年) 近代セールス社. 8,000. 1985-09. 20位. つきぢ田村?名店の献立 (1985年)
                     *
この本は昭和60年5月に第一刷が販売され、専門書としては珍しく再版、新版、さらには新装版と、著書の私が知らないところで、版が重ねられ、今年で22年目のロングセラーだ。つい最近まで書店に並んでいたが、最近見かけなくなったので、検索したら、どうやら絶版になったらしい。

 生まれて初めてのこの出版は、もちろん私の力などではない。波形克彦彦先生のお引き回しである。
 
 当時、私は、脳力開発の城野宏先生に弟子入りし、脳力開発インストラクターの教育を受けていた。師の持参したら、「これを卒業論文の代わりにしてやるわ」。鹿児島の遠くから上京しなければならない弟子を気遣って、脳力開発のインストラクターの卒論に代えてくださったこと、今でも忘れない。

 フジサンケイの「夕刊フジ」やあちこちから取材あったこともあり、ラーメン店業界からの仕事が増え、熊本に「ラーメン派読書館」という、1000冊の蔵書を壁に敷き詰めたラーメン屋を、顧問先とつくったし、北九州の製麺業のラーメン店企画・出店の手伝いもした。
 
 以来、共著、文筆、自費出版を含めて23冊の本をだせたのも、幸運な、この1号があったからこそである。
 出版社の版権買い取り性だったから、いくら売れようが私の懐には無関係だったが、それ以上のものを、私に与えてくれた。
定価1420円の本が990円に変わり果てたとはいえ、また19位が上位なのか、下位なのかわからないが、生き残っていてくれることは嬉しい。

刈り入れ

2007年08月05日 | Weblog

 今の刈り入れにひたすらでは、未来はどうするか。ずるいといって良い。今の刈り入れの大半は私たちの先達、お祖父さんとか父母達か、過去に種を蒔いて下さったものを刈り入れている。偉そうに売上が上がったとか、儲かったとかいっているが、それがすべて自分の力のせいだ、と思っていたとしたら傲慢そのもの、といってよい。

 それは別にしても、刈り入れだけに熱心になって、刈るものが無くなったらどうするのか。他人の畑にいって刈り入れするか。今年、来年、再来年も、5年後も、10年後も刈り入れをしよううと思えば、今何になさなければならないかは自明の理。これが経営計画である。

ところが最近、経営計画みても、種まきの計画がない。財務諸表を拝見させていただいても開発費、研究費、教育費など、将来(さき)の種まきの類の費目はない。、といった

 四季を通じてしかも毎年花をみたかったら、四季を通じて先分ける花の種を蒔く必要がある。一年草だけでは2年目には収穫はない。安定して収穫し続けるためには、いろんな種類の種蒔きをやらねばならない。私はいつも申し上げているのだが、収穫を刈り入れるのは従業員の仕事。種を探し、仕入れて蒔くのは社長なり専務の仕事なのである。それを従業員と競って刈り入れに始終している経営者ばかりである。しかもそのことを「良し」として「私は率先垂範して、社員の先頭に立って頑張ってます」と言っているのである。 先頭のあなたがどけば、社員はもっと早く走れるのに、邪魔をしていることにも気付かない。滑稽で可笑しくてしょうがない。
 いったい将来の飯の種は誰が蒔くのか。蒔かない種から収穫ができるであろうか。今はいいとして、この将来(さき)家族や従業員を食べさせていけるのか。
 今、ブルマーを熱心に売り込んでも売れまい。業態でも同じこと。酒のDCは、酒をどこでも販売するようになった時点から、存在意義を無くしているのである。

 いつ、それも突然、自分の主力商品が、ブルマーや酒のDCになるかなど、判らないのである。

知る、知らない、どっち

2007年08月04日 | Weblog
 以前、以下のようなことをブログで触れた。

サイコロをふって、何の数字がでるかを議論しても、
 考えてもわかるはずがない。 サイコロにもわからないこと。

 わかっていることは、賽の目は1-6のどれかであること。
それは事前ではなく、ふったあとにわかる。

このブログ、いったいだれが見るのか?それは見る人の判断。
喜ぶか喜ばないか、それも相手の判断。
わからないから、わかるようにいろいろやる必要がある。


 上のようなこと。これに対し、
「 だったらどうした? どうすればいいの」
 といったメールを頂いた。

 私が文字通り,抜けていること、抜かしていること、足りないことは.
こうしたカタチで補足してもらったり、補足を促してもらえる。
 時には、誤字脱字を添削もしてくださる。
 足りないが故の、有り難さだ。  

 従来の非公開型の日記なら、そうはいかない。
 
子供の頃、私の日記を盗み読みした母を、
 自分でもいやになるぐらい責めたけど、
 そのうち少し利口になって、
 欲しいものを、さりげなく書き、
 その後段に思わせぶりを添えて、
 見事に父が反対していた自転車を手に入れた。

 わからないことをやるのが、どうしてもいやなら、
 わかっていることだけやればいい。
 その代わり勝負事も、宝くじも買えなくなる。

 それもいやというのなら、どうしよう。

 やはり、わからないことを、
 少しでもわかる状態へ持って行き、
 その確度を高めることにやりがいを見いだす
 これだろ。

 ところで、この2月に結婚した姪が、
 お目出たになったときにと、用意したプレゼントが
 ここにある。減るものではないから、書いておこう。

               *
 知絵よ。知絵さんよ
 子供が生まれるとしたら無事か、無事でないか。どちらかだ。
 だからよいい医者を選びなさい。

 子供が生まれるとしたら、男か女か、どちらかだ。
 だからこれを事前に知ることをやめなさい。

 名前も男用、女用。両方を考える。2倍楽しいじゃないか
 頂く衣類は、男用か、女用か、どっちでも使えるもの。この3種類。

 もし男だったら、女用は楽天かヤフーのオークションで、ミルク代が稼げる
 もし 女だったら、男用は楽天かヤフーのオークションで、ミルク代が稼げる
 どっちでもいいものは、すぐ使える。有り難いじゃないか。

 男か女かわからないから、生まれるまでは野次馬も入れて会話が弾む。
 時には、男か女か夫婦で、当てっこしたらいい。
 2万円ぐらい賭けても良いじゃないか。

 お母さんが勝つたら、お父さんに奢り、
 お父さんが勝つたら、お母さんに奢り

 二人とも当てたらこの私に千葉・四街道の落花生を送りなさい。

 わからないから楽しみ。わかったときに楽しめる、
 この楽しみを半分にしないように。
 わからないから、楽しみ。わかるまで楽しみ。
 わかってから楽しむ。3倍だからね。

 知絵よ。知絵さんよ
 なんでも3倍楽しむ。そんな虫の良いことを、
 いつも考えて過ごすのが、楽しみの人生。

 おめでとう。