経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

生と加工

2009年02月18日 | Weblog
先に、五感で感じることは意識で操作できません
と書いた。少し気になったのでその後いろいろ考えていた。

五感で感じたことを、とかく意識で自分にとって
都合の良い方へもっていきたくなるのが「意識」。

だからこそそのことを意識して、感じたことを
そのまま受容し、受け止め、それで対応する。

「感じたこと」そのまんまが、情報。
それを意識で「判断する」と、情報の加工になる。
加工は意識的、無意識的に係わらず、自分(加工者)の考え、判断が入る。
だからこそ「加工品」であって、そのこと自体を云々ではない。

しかし、それはもはや生情報ではないということと、
それゆえに加工されているということを、
承知しておかねばならない、ということだ。

この場合、前者、自分の自分の五感で感じたものを確度1といい,
明快に他人を介した情報(自分が見聞きしたものではないもの)と分離する。
これが師の城野 宏から学んだ情勢判断学の手法の1つである。

長い間、ここを私の不肖故に誤解していたことに気がついた。

それは「他人」の解である。あるいは定義である。

フランスの詩人、ランボーだったかうろ覚えだが、
「私はひとりの他者である」、といった言葉を思い出した。

つまりは、私は私であって、他の誰でもない。
私は私の意志で自分の生き方を選んでいるのだから、
というのが普段の私たちの意識で、「私は私である」のは自明の理。

しかし、それはそれとして、じゃあほんとうに私は私なのか?、
「親の意思にしたがってといったことではないのか」、
と考えはじめると、訳はわからなくなる。

さらに、セラーピー達が口癖で言う「もうひとりの自分」というのもある。
これは潜在意識のことだが、このもう一人自分存在は、
顕在意識上の自分から見たら、広義の他者に含めて良いのではないか
神の意志、といった言い方もあるし、・・・・。
こうして、また判らなくなる。

元に戻す。
私は、師の言う「他者をとおして得た情報=乙情報」を
自分以外の他の人間として、解していた。

それが最近、生情報で感じたことを、
「加工する(無意識も含めての)意識」をも、
他者に含める解が、師の本意ではないか、ということに気づいた。

自分には、感じる自分と、それに意識的、無意識的に
評価を加えて加工する自分がいる。

製造販売、生産直売の類である。
工程、あるいは流通プロセスからいったら、
左の、製造、生産が先で、販売、直売は後。時間差がある。
また製造と販売、生産と直売は別の業務である。
それをこの私が一人でやっているからといってイコールではない。
つまり分けて考えるべきだ、ということである。

畢竟、生情報を受けた感じを重視。
生情報ではない場合は、その加工された部分を除去して「感じる」。
感じたことをもって、次のステップへと言うことではないか。

書きながら、難しい問題だ、と実感。
当然これは未完原稿。
一生かけても結論など、私は得ないのかもしれない。