ここ数週間、長尾たかしの主張はよくわかった。しかし、何故民主党だったのか?何故あのときだったのか?何故、自民党だったのか?というご質問をたくさん頂いています。過去にも記した事はありますが、自民党にお世話になる経緯も少々触れながらあらためて記したいと思います。
※こちらの動画もあわせて御覧下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=GrwjU35MNyc&list=PLHJzNdH_h49qZkGipC3e_UucBPbiRfSjX&index=13
戦後与党は、吉田ドクトリンを踏襲し、防衛は二の次、それが国を売る行為に繋がろうとも経済最優先という時代でした。確かに戦後の泥沼から日本を世界第二位の経済大国にまで押し上げたのは、自民党でした。しかし、そんな自民党政権が1985年のプラザ合意で国益を損なう突然の人為的な「円」の操作を何故許すのか?日米構造協議により経済という側面で何故米国に国を切り売りするのか?非常に疑問でした。また、自民党の綱領には憲法改正が最重点課題として掲げられているのに、戦後一貫して憲法改正を一向にしようという気配がない。北方領土を取られ、竹島の実行支配を許し、従軍慰安婦問題での河野談話など、疑問ばかりでした。
私の専門分野は「社会保障」ですが、「安全保障」も両輪で考えていかなければならないという概念が民主党には確実に存在していました。また、まだまだ若い政党なので、社会保障と安全保障を両輪に、憲法改正も可能な環境、自分が当事者となって保守系議員の皆さんと一緒に汗をかこうと思い、民主党で活動を開始したのでした。
これが、10年経過して「間違いだった」いう判断になるのです。
民主党支部長として地元活動を開始して早々、自治労・日教組・解放同盟という団体と軋轢が生じました。外国人地方参政権・人権擁護法案には反対、戦後自虐史観を生徒に植付けた日教組活動は理解出来ない等、ホームページで主張していたことが、団体に知れ渡ったからです。その後も主義主張を変える事なく、結果これ等団体からは選挙戦の支援を頂かないという方向性が暗黙の了解の中で出来上がりました。「何であんな奴が民主党にきたんだ」というお声も間違いなくあったと思います。ただ、組織としては決裂関係でしたが、意外な事にそれら組織の方々でも個人としては長尾たかしに共感してくださる方々もいらっしゃり、応援をしてくださったという事も記したいのです。必ずしも組織として一枚岩ではなかったという事です。そんな私の立ち振る舞いを党内で批判する風潮もありませんでしたので、のびのびと周辺にご迷惑をおかけしながら活動し、衆議院議員に初当選させて頂きました。
民主党の変節は、平成22年の尖閣諸島中国漁船衝突事件の前後からだったと理解しています。
保守系と、中国への過渡な配慮を主張する勢力との間で、「冷たい戦争」状態が始まったのだと思います。そして、民主党分裂の引き金は意外にも安全保障問題ではなく、社会保障と税の一体改革議論とTPP問題が引き金でした。因に私の立ち位置は、デフレ下における増税には反対、附則18条(景気回復を前提とする引き上げ)を入れる事でギリギリ賛成、TPPはルールを作る側に立てないのなら参加には反対というものでしたし、この主張は今も一貫しています。
この2つのテーマを巡る攻防の中で、我々の側の勢力が圧倒的に多数であるという現実があったことを特に強く主張したいと思います。
しかし、増税については財務省、TPPについては外務省・経産省の言いなりの推進派は、議論の最終局面においては議員が集まらぬような時間帯での開催、その場凌ぎに終始する会議運営等、あらゆる工作に出たのです。議論平行線の中で増税議論については、附則18条により与野党通じて賛成の方向性で、私もこれは賛成しました。しかし、収まらないのは附則18条があったとしてもやはり反対するという勢力、彼等が「国民の生活が第一」を組織する事になる訳ですが、「振上げた拳をおさめる場」てもらう場を設けようという動きがありました。実はその間を取り持っていたのが私でした。「両院議員総会で多数決を取り賛成多数であれば我々も党の決定には従う、武士としての逃げ道が欲しい」という彼等の主張を受け入れ分裂は防ぎたかったのです。
しかし、党執行部は彼等に逃げ道となる場所すら作らず、「出て行きたい連中は出て行けばいい」という姿勢を貫きました。
政権与党としての奢りが出たのでしょう。意見の合わない勢力は排除するという奢りの中で私も唇を噛み締める毎日でした。そして、私が領土議連事務局長として尖閣諸島洋上視察へ参加した事は党内に妙な空気を作ったようでした。「国民の生活が第一」に合流した議員の多くは、憲法改正に積極的、人権擁護法案にも慎重の議員が多かったのですが、彼等が離党した後は、もはや私としては多勢に無勢。
そして、いよいよ足元が追いつめられていた時にある自民党議員の方からご連絡を頂き、10月1日に大阪某所で非公式にお目にかかりました。安倍総理からは自民党が野党時代、折に触れて超党派で海外出張等もご一緒する等、厚くご指導を頂いていましたし、社会党から自民党入りした同じ選挙区の議員が自民党を離党したので、自民党席が空いていたのです。世間様から見れば、「よかったじゃないか、良いタイミングで」という感じかもしれませんが、地元自民党としては過去3回相見えた相手。収まりがつく筈もありません。
実は日本維新の会が誕生する以前から、「我々と合流しないか」とお声をかけて頂いた事も事実です。松野議員ともお目にかかったり、特に松浪議員、石関議員は国家観歴史観が共有出来る先輩議員として行動を共にしていましたので、気に掛けて頂いていました。しかし、「大阪14 区を離れて欲しい」というのが条件でした。条件というか、私から合流したいというお話をした事はありません。あくまでも、先方からのお誘いの中の条件です。
そんな話しは飲めません。絶対に飲めません。
「議員バッチを取るか?厳しい選挙をとるか?」とまで突きつけられましたが、大阪14区を捨てる事は出来ませんでしたし、まだ日本維新の会の形が見えていない頃で、国家観歴史観に関して不安がありましたので、最終的にお断りをしました。
秘密裏に自民党執行部の方々とたくさんの相談を致した結果、私が離党し、公募に応募をするという形が一番自然な流れなのではないかと判断しました。そして、党本部において、無所属・自民党推薦、比例当選という退路を断って挑戦する事に決定しました。
離党が遅かったのではないか、公認だったら何とかなっていたのではないかというお話を今でも頂きますが、あのタイミング以上のものは考えられなかったと確信しています。09選挙で「長尾たかしは知らなくとも民主党だから投票した」という方々への責任の果たし方も考えました。解散の声を聞くまでは民主党議員でいるべきだと判断しました。たとえそれが選挙戦に良い結果をもたらさないとしても、そう判断しました。
それが筋のとおし方だと判断しました。
その頃、長尾たかしバッシングが全国に轟いた事は皆様ご承知のとおりです。
無所属にも関わらず、安倍政権で閣僚になられた下村大臣、古屋大臣ほか、衛藤晟一現総理補佐官、城内実外務大臣政務官、山谷えり子内閣部門長、そして安倍総理からの指示という事で櫻井よし子先生にも応援にも駆けつけて頂きました。そして、12月13日近鉄八尾駅前においての安倍総理の応援演説中、「今ここで、長尾たかし君を公認と決定します」というサプライズ公認があったのです。全く事前には知らされていなかった事を繰り返し申し上げたいと思います。本当に何も知らされていませんでした。
自民党が大勝する中での大阪は惨敗。すべて、ゼロベースで国政復帰に向けてスタートを切ってようやく半年。大海に自ら漂い、安倍総理に拾って頂いたこと、追加公認という舞台を頂いた事。落選し議員職は許されなかったものの、次に繋がるチャンスを与党の一員として頂いた事。心が折れたり、弱音を吐いたりする事もなく、活動に取り組んでいます。
今後とも厳しくお見守り下さい。頑張ります。
※こちらの動画もあわせて御覧下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=GrwjU35MNyc&list=PLHJzNdH_h49qZkGipC3e_UucBPbiRfSjX&index=13
戦後与党は、吉田ドクトリンを踏襲し、防衛は二の次、それが国を売る行為に繋がろうとも経済最優先という時代でした。確かに戦後の泥沼から日本を世界第二位の経済大国にまで押し上げたのは、自民党でした。しかし、そんな自民党政権が1985年のプラザ合意で国益を損なう突然の人為的な「円」の操作を何故許すのか?日米構造協議により経済という側面で何故米国に国を切り売りするのか?非常に疑問でした。また、自民党の綱領には憲法改正が最重点課題として掲げられているのに、戦後一貫して憲法改正を一向にしようという気配がない。北方領土を取られ、竹島の実行支配を許し、従軍慰安婦問題での河野談話など、疑問ばかりでした。
私の専門分野は「社会保障」ですが、「安全保障」も両輪で考えていかなければならないという概念が民主党には確実に存在していました。また、まだまだ若い政党なので、社会保障と安全保障を両輪に、憲法改正も可能な環境、自分が当事者となって保守系議員の皆さんと一緒に汗をかこうと思い、民主党で活動を開始したのでした。
これが、10年経過して「間違いだった」いう判断になるのです。
民主党支部長として地元活動を開始して早々、自治労・日教組・解放同盟という団体と軋轢が生じました。外国人地方参政権・人権擁護法案には反対、戦後自虐史観を生徒に植付けた日教組活動は理解出来ない等、ホームページで主張していたことが、団体に知れ渡ったからです。その後も主義主張を変える事なく、結果これ等団体からは選挙戦の支援を頂かないという方向性が暗黙の了解の中で出来上がりました。「何であんな奴が民主党にきたんだ」というお声も間違いなくあったと思います。ただ、組織としては決裂関係でしたが、意外な事にそれら組織の方々でも個人としては長尾たかしに共感してくださる方々もいらっしゃり、応援をしてくださったという事も記したいのです。必ずしも組織として一枚岩ではなかったという事です。そんな私の立ち振る舞いを党内で批判する風潮もありませんでしたので、のびのびと周辺にご迷惑をおかけしながら活動し、衆議院議員に初当選させて頂きました。
民主党の変節は、平成22年の尖閣諸島中国漁船衝突事件の前後からだったと理解しています。
保守系と、中国への過渡な配慮を主張する勢力との間で、「冷たい戦争」状態が始まったのだと思います。そして、民主党分裂の引き金は意外にも安全保障問題ではなく、社会保障と税の一体改革議論とTPP問題が引き金でした。因に私の立ち位置は、デフレ下における増税には反対、附則18条(景気回復を前提とする引き上げ)を入れる事でギリギリ賛成、TPPはルールを作る側に立てないのなら参加には反対というものでしたし、この主張は今も一貫しています。
この2つのテーマを巡る攻防の中で、我々の側の勢力が圧倒的に多数であるという現実があったことを特に強く主張したいと思います。
しかし、増税については財務省、TPPについては外務省・経産省の言いなりの推進派は、議論の最終局面においては議員が集まらぬような時間帯での開催、その場凌ぎに終始する会議運営等、あらゆる工作に出たのです。議論平行線の中で増税議論については、附則18条により与野党通じて賛成の方向性で、私もこれは賛成しました。しかし、収まらないのは附則18条があったとしてもやはり反対するという勢力、彼等が「国民の生活が第一」を組織する事になる訳ですが、「振上げた拳をおさめる場」てもらう場を設けようという動きがありました。実はその間を取り持っていたのが私でした。「両院議員総会で多数決を取り賛成多数であれば我々も党の決定には従う、武士としての逃げ道が欲しい」という彼等の主張を受け入れ分裂は防ぎたかったのです。
しかし、党執行部は彼等に逃げ道となる場所すら作らず、「出て行きたい連中は出て行けばいい」という姿勢を貫きました。
政権与党としての奢りが出たのでしょう。意見の合わない勢力は排除するという奢りの中で私も唇を噛み締める毎日でした。そして、私が領土議連事務局長として尖閣諸島洋上視察へ参加した事は党内に妙な空気を作ったようでした。「国民の生活が第一」に合流した議員の多くは、憲法改正に積極的、人権擁護法案にも慎重の議員が多かったのですが、彼等が離党した後は、もはや私としては多勢に無勢。
そして、いよいよ足元が追いつめられていた時にある自民党議員の方からご連絡を頂き、10月1日に大阪某所で非公式にお目にかかりました。安倍総理からは自民党が野党時代、折に触れて超党派で海外出張等もご一緒する等、厚くご指導を頂いていましたし、社会党から自民党入りした同じ選挙区の議員が自民党を離党したので、自民党席が空いていたのです。世間様から見れば、「よかったじゃないか、良いタイミングで」という感じかもしれませんが、地元自民党としては過去3回相見えた相手。収まりがつく筈もありません。
実は日本維新の会が誕生する以前から、「我々と合流しないか」とお声をかけて頂いた事も事実です。松野議員ともお目にかかったり、特に松浪議員、石関議員は国家観歴史観が共有出来る先輩議員として行動を共にしていましたので、気に掛けて頂いていました。しかし、「大阪14 区を離れて欲しい」というのが条件でした。条件というか、私から合流したいというお話をした事はありません。あくまでも、先方からのお誘いの中の条件です。
そんな話しは飲めません。絶対に飲めません。
「議員バッチを取るか?厳しい選挙をとるか?」とまで突きつけられましたが、大阪14区を捨てる事は出来ませんでしたし、まだ日本維新の会の形が見えていない頃で、国家観歴史観に関して不安がありましたので、最終的にお断りをしました。
秘密裏に自民党執行部の方々とたくさんの相談を致した結果、私が離党し、公募に応募をするという形が一番自然な流れなのではないかと判断しました。そして、党本部において、無所属・自民党推薦、比例当選という退路を断って挑戦する事に決定しました。
離党が遅かったのではないか、公認だったら何とかなっていたのではないかというお話を今でも頂きますが、あのタイミング以上のものは考えられなかったと確信しています。09選挙で「長尾たかしは知らなくとも民主党だから投票した」という方々への責任の果たし方も考えました。解散の声を聞くまでは民主党議員でいるべきだと判断しました。たとえそれが選挙戦に良い結果をもたらさないとしても、そう判断しました。
それが筋のとおし方だと判断しました。
その頃、長尾たかしバッシングが全国に轟いた事は皆様ご承知のとおりです。
無所属にも関わらず、安倍政権で閣僚になられた下村大臣、古屋大臣ほか、衛藤晟一現総理補佐官、城内実外務大臣政務官、山谷えり子内閣部門長、そして安倍総理からの指示という事で櫻井よし子先生にも応援にも駆けつけて頂きました。そして、12月13日近鉄八尾駅前においての安倍総理の応援演説中、「今ここで、長尾たかし君を公認と決定します」というサプライズ公認があったのです。全く事前には知らされていなかった事を繰り返し申し上げたいと思います。本当に何も知らされていませんでした。
自民党が大勝する中での大阪は惨敗。すべて、ゼロベースで国政復帰に向けてスタートを切ってようやく半年。大海に自ら漂い、安倍総理に拾って頂いたこと、追加公認という舞台を頂いた事。落選し議員職は許されなかったものの、次に繋がるチャンスを与党の一員として頂いた事。心が折れたり、弱音を吐いたりする事もなく、活動に取り組んでいます。
今後とも厳しくお見守り下さい。頑張ります。