泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策(3)

2019年03月07日 22時16分39秒 | 歴史

「磐余(いわれ)」とは、奈良盆地の東南端に位置し、奈良県桜井市の西部地域を指した古代の地名です。この地は、5世紀から6世紀にかけての大和政権の政治の中心地でした。

 前回、2回に分けて大和政権の政治の中心地「磐余の道(いわれみち)」沿いの歴史散策の様子を紹介しました。

ひき続き、大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策(3)の様子を、紹介したいと思います。

今回は、ひとりで「稚桜(わかざくら)神社」・「磐余池推定地」の近くにある、「青木廃寺跡」と「池之内古墳群」を、歴史散策してきました。

〇「青木廃寺跡」

桜井市橋本(桜井市の西南にあり橿原市に接している)の青木山の山懐にあるのが、「青木廃寺跡」です。
この寺は、奈良時代の悲劇の宰相だった「長屋王」が、父「高市皇子」の菩提(ぼだい)を弔うために創建されたと考えられる寺院跡が、「青木廃寺」だといわれています。ここは今でも古瓦が散見され、古代瓦研究家の先生によると、長屋王邸跡(現イトーヨーカドー奈良店)から出土したものと同じ型の瓦が多数出土していることや、高市の子孫である高階(たかしな)氏の銘の入った瓦が見つかっていることから、「長屋王」が父・高市の冥福を祈って建てた寺と考証しているようです。
ちなみに「高市皇子(たけちのみこ)」は、天武天皇の第一皇子で母は筑前の豪族・宗像徳善(むなかたとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)です。壬申の乱のおり活躍しました。

現在、「青木廃寺跡」に置かれているのが「泥掛地蔵尊」です。このお地蔵さんに、自分の痛むところ、治したいところに合わせて、このお地蔵さんに泥を塗りつけると、治るという信心があるようです。地域で大切にされているようです。この日も、新しい花が添えてありました。

ところで、「青木廃寺跡」の場所がなかなわかりづらく、何回も道を間違えました。大師堂の横の道をしばらく歩くと、ようやく標識がありました。途中には、小さな石仏があり溜池の横を通り過ぎると「泥掛地蔵」さんが見えてきました。周辺には平らなところがあり、ここに寺が立っていたのでしょうか・・・

苦労して見つけた「青木廃寺跡」もですが、行く途中の路傍の石仏と「泥掛地蔵」さんのお顔が印象的でした!

                   

〇「池之内古墳群」

桜井市の西南部に位置する古墳群で、1970年県立農業大学校の建設に先立ち橿原考古学研究所で調査されました。小規模な古墳群(8基)ですが、鏡、勾玉、管玉、石釧、琴形石製品、鏃形石製品、鉄製武器類など豊富な出土品がありました。これらの出土品から、4世紀末~5世紀にかけて築造された前期古墳的な性格を持つ古墳群として中央政権に君臨した豪族層の墳墓群の可能性が考えられているようです。また、副葬品はほとんど橿原考古学研究所で保管されており、見ることが出来るようです。

「池之内古墳群」は、「稚桜(わかざくら)神社」から、数分の所にあります。「奈良県農業研究開発センター」の敷地内にあり、整備されていますが説明版が一枚あるだけでした。

このあたりは、古代の宮跡が集中している「磐余(いわれ)」の地域と考えられており、この古墳群には、はたしてどのような人が眠っているのでしょうか・・・

今回も、古代を想いながらの散策でした。春の陽気にさそわれて、のんびりと歩く「磐余の道(いわれみち)」沿いの歴史散策、とても面白かったですよ!

              

 

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