大阪府南河内郡太子町にある「叡福寺(えいふくじ)」は、推古天皇が「聖徳太子」の墓を守護するために建立されたお寺です。
戦国時代には、織田信長の兵火で焼失しましたが、江戸時代に豊臣秀頼によって聖霊殿が再建され、次第に伽藍の復興が図られました。
毎年4月11日、12日の大乗会式には「太子まいり」として多くの人でにぎわいます。
今回は、河内三太子(かわちさんたいし)の三番目の寺院「上(かみ)の太子・叡福寺(えいふくじ)」について、紹介したいと思います。
大阪府と奈良県との府県境近く、太子町の竹内(たけのうち)街道沿いに立つ「叡福寺」は、「聖徳太子」の御陵のある寺院として広く知られています。日本の古代史に偉大な足跡を残した「聖徳太子」に対する信仰は、すでに奈良時代から認められますが、鎌倉時代にも親鸞、叡尊、日蓮、一遍といった高僧が「叡福寺」に参詣しました。
以後、「叡福寺」は四天王寺とともに、大阪における太子信仰の拠点寺院として繁栄してきました。
「聖徳太子」は、推古天皇の摂政として十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣など進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った「聖徳太子」の知名度は抜群に高いです。
『日本書紀』によると、621年2月5日の夜半「聖徳太子」は斑鳩の宮に薨去され、その月のうちに磯長(しなが)廟に葬ったと伝えられています。
また寺伝では、「聖徳太子」は生前にこの地に廟を造ることに決め、620年に墓所を造営したとされているようです。
621年に、太子の母・穴穂部間人大后が死去したのでこの墓に埋葬しされました。更に622年2月には、大后の眠る廟に太子と前日に亡くなった妃の膳部大郎女が合葬されました。
こうして三人の棺がこの御廟に納められたので、「三骨一廟」と呼ばれるようになったようです。
南大門をくぐると、正面に聖徳太子御廟が見えます。南大門と御廟を結ぶ中心線の西側に、手前から多宝塔、金堂、精霊院が並びます。中心線の東側には客殿と念仏堂が建っています。これらの伽藍のうち精霊院と多宝塔は、昭和52年に国の重要文化財に指定されました。
御廟の周囲には、二重の石列が巡らされています。これは弘法大師が築いたと言われる聖地と俗界をへだてる結界石で490本もあるとされ、全てに観音の梵字が刻まれています。
河内三太子(かわちさんたいし)の歴史散策は、古代の歴史がお好きな方はお勧めです。歴史のロマンが感じられる、河内三太子(かわちさんたいし)でした!
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