泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

不弥国(ふみこく)国を歩く(嘉穂)2「立岩(たていわ)堀田遺跡」

2019年10月24日 17時22分55秒 | 歴史

邪馬台国時代の国の 「不弥国(ふみこく)」比定地として、九州説では宇美(福岡県粕屋郡宇美町)や嘉穂(福岡県飯塚市)とする説があるようです。前回は、宇美(福岡県粕屋郡宇美町)にある、不弥国(ふみこく)の王墓ではないかともいわれている古墳(光正寺古墳)」を、紹介させていただきました。

『三国志』の通称「魏志倭人伝」によれば、「不弥国(不彌國)」は、奴国(または伊都国)から東へ百里の位置にあると記されています。「 不弥国」は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつです。「不弥国」については、「フミ」という音と奴国の東へ百里と記されていることから、その位置を福岡県宇美(うみ)町に比定する説が有力ですが、今回もう一つの比定地とされる嘉穂(福岡県飯塚市)の歴史散策をしてきました。数回に分けて、紹介させていただきたいと思います。

今回は、邪馬台国時代の「不弥国(ふみこく)」を歩く(嘉穂)2「立岩(たていわ)堀田遺跡」を、紹介させていただきます。

飯塚市(いいづかし)は、福岡県の中部に位置する市で筑豊三都の一つに数えます。筑豊で最大の人口を擁し、筑豊の政治・経済の中心機能を持つ都市でもあります。その中心地にある「立岩堀田遺跡」は、飯塚市中心の小高い丘陵地にあります。1963~64年に調査が行われ、弥生時代の甕棺墓43基、貯造穴26基などが発見された。甕棺からは、前漢鏡をはじめとする当時の貴重な品々が副葬品として出土しました。特に10号甕棺には、前漢式銅鏡6面、細形銅矛1本、鉄剣1本が副葬されていました。この地域を支配していた王墓と考えられているようです。琉球の海でしか採れないゴウホラ貝の腕輪を着けた男性の遺体も見つかっており、この時代に立岩と琉球が交易で繋がっていたことが分かります。この地が、魏志倭人伝の「不弥国」とする学説もあるようです。 

「立岩堀田遺跡」は、今は丘陵部に小さな公園に立てられた石碑と案内板のみが遺跡である事を示しています。
甕棺からは、前漢鏡をはじめとする当時の貴重な品々が副葬品として出土しました。発掘品は飯塚市歴史資料館に展示されています。昭和52年(1977)国の重要文化財の指定を受けました。飯塚市には紀元前後の遺跡が多く見つかっています。これらの遺跡を総称して「立岩遺跡(群)」と呼んでいます。
立岩は、上質の石包丁産生地でした。遺跡周囲から笠置山の輝緑凝灰岩を材料にした未完成の石包丁が多数出土しています。立岩の石包丁は、福岡県内をはじめ佐賀県や大分県まで広く分布しています。これがこの国の財源の基盤となったのでしょう。発掘品である、甕棺、銅鏡、銅矛、石剣、石戈など「立岩遺跡」の出土遺物はすべて飯塚市歴史資料館に保存、展示されています。
塚市歴史資料館は、jR新飯塚駅から徒歩5分程度の距離にあります。飯塚地方の古代から現代までを約1500点もの資料が展示しています。「立岩遺跡」の出土品は、なかなか見ごたえがありました。嘉穂盆地は、福岡県のほぼ中央に位置し、東西南の三方を山に囲まれ、遠賀川が北に流れており、川の上流地域にあたります。「立岩堀田遺跡」(弥生時代中期)において、王墓級の墳墓が発見されていることなどから「不弥国」の有力な候補地の一つとされています。

「立岩堀田遺跡」からの発掘品を見学した後、「立岩遺跡」に立ってみると、ひょうとしてこの場所が、邪馬台国時代の「不弥国(ふみこく)」の中心地ではないかと思われました!

次回は、「不弥国」内にある、装飾古墳を紹介したいと思います。

                                                         

 


 

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