泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

奴国を歩く「須玖岡本遺跡(奴国の丘歴史公園)」

2019年08月03日 14時57分33秒 | 歴史
今、「飛鳥」の地を離れて、九州の博多の地にいます。この地は、今から2,000年ほど昔のこと、弥生時代の福岡平野一帯は「奴国(なこく)」とよばれる国でした。国宝「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印で有名な「奴国」の中心地があったとされる、春日市(福岡県福岡市の東南に隣接する市です)の「須玖岡本
(すぐおかもと)遺跡」に、「奴国の丘歴史資料館」と「奴国の丘歴史公園」があります。今回は、奴国を歩く「須玖岡本遺跡(奴国の丘歴史公園)」を、数回に分けて紹介したいと思います。
 福岡県春日市は、福岡市の東南に位置し春日丘陵と呼ばれる福岡平野の南部丘陵を形成しています。この地方は古くから古代の墳墓・ 遺跡が発見されており、中でも青銅器生産関連の遺物が多いことで注目されていました。 
「奴国」は、大陸に向かう天然の良港・博多湾という地の利により、いち早く中国や韓半島からの進んだ文化を取り入れて発展した先進地域でした。奴国」の王は、西暦57年、中国の皇帝(漢の光武帝)に使いを送りました。これを喜んだ光武帝は「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)」の金印を与え、
正式に奴国の王を認めたと、古代中国の歴史書『後漢書(ごかんしょ)』東夷伝(とういでん)は記しています。「奴国」は、日本列島の国の中で初めて世界の歴史に名を刻んだ国なのです。春日市域では、弥生時代中期から集落が急増し「奴国」の中心地として成長していったことが、遺跡の発掘調査で裏付けられています。
弥生時代の終わりごろ(約1,800年前)、日本列島で最も勢力を誇っていたのは、女王「卑弥呼(ひみこ)」が治める「邪馬台国(やまたいこく)」でした。倭国(わこく)はまだ大小30余りの国に分かれて相争っており、その中にあって、この頃の「奴国」は、2万戸を超える人々が住む有数の国だったことが「魏志倭人伝」には
記されています。「魏志倭人伝」に記された国のうち、対馬国(長崎県対馬市)、一支国(長崎県壱岐市)、末盧国(佐賀県唐津市)、伊都国(福岡県糸島市)、奴国(福岡県福岡市)の五カ国は、 所在地がほぼ確定されているようです。「伊都国(いとこく)」については、以前に日本古代史最大の謎「邪馬台国と卑弥呼」(2014年8月12日)のブログの中で、
平原遺跡等を紹介させていただきました。
「奴国」の王都ともいえる「須玖岡本遺跡」周辺部では、弥生時代中期から引き続いて盛んに青銅器やガラス製品、鉄器などを生産していたことが、近年の発掘調査によって分かってきました。わが国最大規模を誇る青銅器工房で、大量に生産された銅矛(どうほこ)などは、西日本各地から朝鮮半島南部にまでもたらされており、「奴国」の影響力がいかに大きかったかを物語っています。
「奴国の丘歴史資料館」内には、弥生時代の青銅器や鉄器、鋳型など多数の遺物を展示した「考古資料展示室」、昭和初期の農家の生活をテーマとした「民俗資料展示室」などがあります。又、国指定史跡「須玖岡本遺跡」の一部である「奴国の丘歴史公園」には、弥生時代の甕棺墓を発掘調査時の状態で展示しているドームがあります。

                         

春日市岡本地区の閑静な住宅街の一角にある「熊野神社」は、国指定史跡を含む「須玖・岡本遺跡」群の中心地にあるお社で、緑豊かな一帯は地域住民のいこいの場としても親まれています。1615~1625年頃の建立と考えられていますが、詳しい年代は明らかでなく、祭神として伊弉諾命(いざなぎのみこと)および伊弉冉命(いざなみのみこと)がまつられています。境内からも、弥生時代のカメ棺と古墳が発見されるなどしています。神社境内に須玖岡本遺跡の説明板も設置してある。江戸時代に近くの畑から銅矛鋳型が発見され、熊野神社の宝物になっています。銅矛鋳型は、国の重要文化財に指定されています。また、本殿裏には、「熊野神社古墳」があります。 

1899年に「熊野神社」近くで巨石の下に発見された甕棺墓(かめかんぼ)は、前漢鏡30面前後のほか多数の宝物が副葬されており、これを「奴国王墓」とするこでは考古学の定説となっているようです。この巨石は、明治時代に家を建てるのにじゃまだというの で動かしたところ、下に墳墓があり中から鏡(前漢鏡)が30面以上、銅剣・銅鉾・銅戈などの青銅器が8本以上、ガラスの壁 (へき)やガラスの勾玉などが多数出土しました。これらの副葬品は既に散逸してしまっていますが、上石だけは転々と場所を代え「熊野神社」に残っていたものを、現在は「奴国の丘歴史公園」内に移転され見ることが出来ます。 

実は、「奴国の丘歴史資料館」ができる数十年前に、この丘陵(現在、「奴国の丘歴史公園」)を歴史散策したことがありました。この時、丘陵にある畑から甕棺の一部が露出していたことを思い出しました。久しぶりに、この地(奴国)を歴史散策していると、歴史の深さを感じ取ることができました!
    
 
   
 

 

 

 

 

 

 

 
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