古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」という番組がありますが、いつも興味深く視聴しています。
飛鳥を散策していて、ふと「飛鳥京」へ入る道は一体どこなのだろうか?
古代の人々は、「飛鳥京」に入る時にどの様な景色を見ながら歩いていたのだろうと想像してみました。
今回は、古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」とは違って、何の根拠もありませんが「飛鳥京」へ入る道を、「ブラタモリ」ならぬ「ブライズミ」をしてみました。
飛鳥には、古代の道の跡がほとんど発見されていませんが、ほんの少しの古代の道路跡や遺跡・資料等を参考にしながら探訪してみました。
「平田キタガワ遺跡」・・・飛鳥京に入る玄関口?
下ツ道・紀路(ほぼ現在の国道169号線に重なるようです)から飛鳥に入る玄関口には、「平田キタガワ遺跡」という遺跡があります。飛鳥京(第Ⅲ期)に類似した石敷きや、石組護岸・敷石・石列などが発見されています。遺構の性格についても、断定できるものは検出されなかったようです。この遺跡は、下ツ道・紀路を通って「飛鳥京」に入っていく入口になると思われます。ここには、斉明朝時の「石神遺跡」のような迎賓館的な施設が建てられていたことが推測されています。ここで、外国からの使節団等が色々とおもてなしをうけたのでしょうか?この立地は、「天武・持統陵」へと続く谷筋になっています。ここから、平田川沿いに歩いてみました。
「欽明天皇陵」・「カナヅカ古墳」・「鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳」・「天武・持統陵」・・・丘陵に一直線上に並び、南側を意識して造られた古墳を見ながら歩いたのでは?
「欽明天皇陵」 明日香村平田にある「梅山古墳」と呼ばれる宮内庁管理の古墳です。墳長は約140mあり、墳丘は北側が2段、南側が3段に築成されています。周濠があり、北側に比べ南側が広く造られていたようです。この古墳は南から見る時に、より壮大に見える工夫がなされていたようです。この場所は、下ツ道・紀路から飛鳥に入る玄関口にあたる地点です。この南には、迎賓館的な施設の「平田キタガワ遺跡」があります。
「カナヅカ古墳」は、現在は小さな墳丘に見えるのですが、築造当時は墳丘全面に東西60m、南北25mの大規模なテラスを持っており、その上に一辺約35mの2段築成の方墳であったと考えられています。やはり、南側を意識して築造されたのでしょうか。
「鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳」は、奇妙な名前を持つこの古墳は、昔このあたりに鬼が住み、旅人を捕まえては上の俎で調理して食べ、下の雪隠で用を足したという伝承がある古墳です。欽明天皇陵から天武・持統陵に至る同丘陵上ある古墳です。やはり、南側を意識して築造されているようです。
「天武・持統陵」は、飛鳥時代を創った天皇の古墳です。高さ約9m・東西約58m・南北約45mで全面石で覆われた5段築成の八角慕です。2室からなる切石積みの石室があり「天武天皇」の棺と「持統天皇」の金銅製骨臓器が納められていたといわれています。鎌倉時代に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われたようです。
「川原下の茶屋遺跡」・・・飛鳥時代の交差点?
この遺跡からは、飛鳥時代の交差点が検出されていて、数少ない道路跡の遺跡です。東西道は、道幅約12m・南北道は道幅約3mで側溝もみつかっています。東西道路は、直線道路と考えられ、西は下ツ道に交わり、東は飛鳥京に続くと思われます。この道路は、川原寺の南門と橘寺の北門の間を通っているようです。地図で確認してみると、飛鳥京のエビノコ郭の西門に突き当ります。ひょうとしたら・・・
この東の道を、歩いてみました。現在、飛鳥遊歩道として整備されており、途中には「亀石」を見ることができます。細い道をまっすぐに歩いて行くと、橘寺はすぐそこにみえていますが田んぼにつきあたりました。
ここで「ブライズミ」で予想しました。「川原下の茶屋遺跡」で見つかった東西道は、道幅約12mです。この田んぼに痕跡は無いだろうかと。ひょっとしてこの畦ではと思い、歩幅で確認してみました。
「ん~、ここかな!?」段差を考えながらさらに歩いて行くと、小さな橋がかかっておりまっすぐに行き、銀行の横の道を歩くと飛鳥京のエビノコ郭の西門に突き当りました!
歴史の楽しみ方も色々な形がありますね。今回、何の根拠もない「ブライズミ」の探訪でしたが、とても楽しかったです!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます