飛鳥時代に、聖徳太子が「斑鳩の里」から「三宅の原」を経て、「飛鳥の宮」とを往来された道が「太子道(筋違道)」です。
今回は、多くの太子伝説が残る「太子道(筋違道)」(後編)を紹介したいと思います。
前回は、近鉄黒田駅の西側にある「黒田大塚古墳」から出発し、南側に向かって田原本駅までの歴史散策を紹介しました。
今回は、近鉄黒田駅から北側に向かって三宅町の屏風から伴堂・島の山古墳までを紹介したいと思います。
(行程)
近鉄黒田駅ー伴堂杵築神社ー三宅古墳群ー忍性菩薩御誕生之地石碑ー屏風杵築神社ー白山神社ー面塚(観世流能楽発祥の地)-島ノ山古墳-------近鉄黒田駅
「太子道」は、条里制の南北方向の地割りに斜交(北方向約20度西、南方向約20度東)している道で、別名「筋違道」とも呼ばれています。中世以降は、「法隆寺」街道とも呼ばれ、生活道路として盛んに利用され、現在も町道三宅70号線として活用されています。
今でもこの道筋には、多くの太子伝説が残されていて、今回そのいくつかを紹介したいと思います。
伝承では、「聖徳太子」は、従者の「調子丸」を従え、愛馬「黒駒」にまたがって、斑鳩から飛鳥の小墾田宮まで、「筋違道」を通って毎日通われたといわれています。
「太子道」の途中に「屏風(びょうぶ)」という場所があります。その地名は、「聖徳太子」が「太子道」を往復する際にここで休憩したとき、村人が屏風を立てて風を防ぎ、食事などの接待したとの故事に由来します。「太子」が休息した場所は「白山神社」になっていて、その境内には「駒つなぎの柳」や太子が休憩をとられた「腰掛石(こしかけいし)」が今も残っています。また、橿原市の新口(にのくち)の地名は、太子が途中で喉が渇き、井戸の水を飲まれて「口中これ新なり」と云われたことに由来するそうです。
また、「太子道」沿いには弥生遺跡や古墳時代に始まる遺跡も多いようです。三宅町~田原本町にかけての地域には多くの古墳が残っています。今回、5世紀後半に築造された三宅古墳群を見学しました。残念ながら、現在、畑等に利用されていて看板がないと、なかなか古墳だとわからないような状態でした。
ただ、「島ノ山古墳」のように全長195mの規模を持つ立派な大型前方後円墳もあり、楽しみながら歴史散策することが出来ました。
今回は、何度も「太子道」を歩かれた方の紹介の本「太子道を往く(岡本精一著)」を参考にしながら、黒田駅を出発点に2回に分けて歴史散策しました。近鉄黒田駅前の道が「太子道(筋違道)」ですので、とてもわかりやすく散策しやすかったです。
「太子道(筋違道)」には、多くの太子伝説が残っていて、とても楽しく歴史散策が出来ました! 次は、どこを散策しようかな・・・