飛鳥時代に、聖徳太子が「斑鳩の里」から「三宅の原」を経て、「飛鳥の宮」とを往来された道が「太子道(筋違道)」です。
以前から、是非歩いてみたい古道の一つでした。今回、田原本町観光ボランティアガイドの方の案内で、「太子道(筋違道)」を歴史散策しました。
今回は、多くの太子伝説が残る「太子道(筋違道)」を2回に分けて紹介したいと思います。
(行程)
近鉄黒田駅ー黒田大塚古墳ー黒田法楽寺ー孝霊神社ー太子道ー宮古(薬師堂)-保津(環濠集落)-薬王寺(楠の巨樹)-蓮休寺ー近鉄西田原本駅
「太子道(筋違道)」として知られる古道の一つに、斑鳩(いかるが)と飛鳥(あすか)の間を短距離で結ぶように造られた直線道路があります。7世紀前半以前に建設されたものと推定されています。
北北西に約20度傾いた斜行道路で、現在この道は、北は斑鳩町高安から下ツ道と合う橿原市新ノ口付近に至る約13.5kmが道路や畦道として残っています。
今回は、近鉄黒田駅の西側にある「黒田大塚古墳」から出発し、南側に向かって田原本駅まで約4キロほど歴史散策しました。
「聖徳太子」がこの道を利用して飛鳥と斑鳩を往復したという伝承があり、そのために「太子道」の名で親しまれています。この道路は、条里制の南北方向の地割りに斜交(北方向約20度西、南方向約20度東)している道で、別名「筋違道」とも呼ばれています。中世以降は、「法隆寺」街道とも呼ばれ、生活道路として盛んに利用され、現在も町道三宅70号線として活用されています。
「太子道」は、現在の生駒郡斑鳩町の高安付近から東南に延びていました。近鉄黒田駅を通り、田原本町の矢部付近で南北に走る矢継街道にはいり、橿原市八木町から飛鳥川の堤を高市郡明日香村に向かっていました。今も三宅町の屏風から伴堂を経て田原本町の宮古まで、太子道の一部が約3kmほど生活道路としてはっきりと残っています。
「太子道(筋違道)」沿いには、太子伝説が数多く残っており、田原本町観光ボランティアガイドさんの詳しい説明のおかげで、大変興味深く歴史散策をすることができました。
特に、宮古の集落で大切にされている「薬師堂」の平安時代初期の「薬師如来坐像」(重要文化財)が素晴らしかったです!
わざわざこの日のために、集落の方が、お堂を開けて頂きました。とても嬉しく思いました。
次回は、近鉄黒田駅から北側に向かって三宅町の屏風から伴堂・島の山古墳までを紹介したいと思います。