伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/04/12

2018-04-12 07:50:20 | 一日一章・聖書通読日記
エレミヤ書 17:1-4
「ユダの罪は、鉄の筆、金剛石のとがりをもってしるされ、彼らの心の碑と、祭壇の角に彫りつけられている。 彼らの子供たちは青木の下と、高い丘の上、野の山の上にある祭壇とアシラのことを覚えている。 わたしはあなたの富とすべての宝とを、あなたの全領域の内で犯した罪の代価として、ぶんどり物とならせる。 わたしがあなたに与えた嗣業からあなたは手をはなすようになる。またわたしは、あなたの知らない地で、あなたの敵に仕えさせる。わたしの怒りによって、火は点じられ、いつまでも燃え続けるからである」。

悪王マナセがもたらした偶像礼拝の罪は人々の心深くにまで刻みつけられ、自分の世代だけでなくその子孫に至るまで、誰にも教わらなくても偶像の神々を拝むようになっていました。身の回りに偶像崇拝が満ちていると、その悪影響は子々孫々にまで及びます。これらの忌むべきことが行われていた故に、主はユダの富と宝物をバビロンが略奪品として国外に持ち去ること、そしてユダの人々は捕囚となって異国人の奴隷となることを預言されました。心の奥底にまで刻みつけられた偶像礼拝のもたらす結末は、深刻な滅びです。私たちは身の回りから偶像を取り除き、偶像礼拝の温床となることのないように注意を払わなければなりません。

http://bible.com/81/jer.17.1-4.ja1955

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エレミヤ書 17:5-8
主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。 彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。 おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。 彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。

この箇所の後半は、詩篇第1篇の内容と同じです。主に寄り頼む者はさいわいを得、人の力に頼り、己を過信して主から離れる者は荒野のような人生を歩むことになることは、ダビデの時代から預言されていました。しかし人は過去の教訓を忘れやすく、自分の思うままに生きようとして最悪の結末を招いてしまう愚かな存在です。ただ主にのみ頼り、ただ主にお仕えしてまことのさいわいを手にする私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.17.5-8.ja1955

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エレミヤ書 17:9-10
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

人は見かけに寄らぬもの、一見ニコニコと穏やかそうに見える人でも、心の奥底では何を考えているのか、さっぱりわからなくなってきています。表面を取り繕うことが上手な人は、心を偽ることを、当たり前のように行っています。しかし主の目を欺くことはできません。主なる神様は私たちの心の奥底に至るまで深く探り、その思いを試み、信仰が本物であるか、表面的な偽りの信仰ではないか、質されます。まことの信仰が結ぶ御霊の実を豊かに実らせる私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.17.9-10.ja1955

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エレミヤ書 17:14-16
主よ、わたしをいやしてください、そうすれば、わたしはいえます。わたしをお救いください、そうすれば、わたしは救われます。あなたはわたしのほめたたえる者だからです。 彼らはわたしに言います、「主の言葉はどこにあるのか。今、それを出して見せよ」と。 悪をつかわされるようにとは、わたしはたって求めませんでした。また災の日を願わなかったのを、あなたはごぞんじです。わたしのくちびるから出たことは、み前にあります。

言霊ともいわれるように、言葉にはいのちがあり、その人の本質が端的に表されます。日頃からの言動が、いざというときに自分を救うことになるか、あるいは自滅を招く結果に終わるか、私たちの将来に大きく影響を及ぼします。自分の口から出た言葉は、すべて主なる神様の御前に覚えられていることを深く認識し、言葉遣いに責任をもって臨む私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.17.14-16.ja1955

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エレミヤ書 17:19-23
主はわたしにこう言われた、「行って、ユダの王たちの出入りするベニヤミンの門、およびエルサレムのすべての門に立って、 言いなさい、『これらの門からはいるユダの王たち、およびユダのすべての民とエルサレムに住むすべての者よ、主の言葉を聞きなさい。 主はこう言われる、命が惜しいならば気をつけるがよい。安息日に荷をたずさえ、またはそれを持ってエルサレムの門にはいってはならない。 また安息日にあなたがたの家から荷を運び出してはならない。なんのわざをもしてはならない。わたしがあなたがたの先祖に命じたように安息日を聖別して守りなさい。 しかし彼らは従わず耳を傾けず、聞くことも、戒めをうけることをも強情に拒んだ。』」

場面は突然変わり、安息日の守り方について主がエレミヤに語られます。当時のエルサレムの人々は安息日を聖別して守らず、自分の利益優先の生活パターンを送っていたことを主は指摘されました。これは私たちの人生のプライオリティーが、神様にあるか、自己実現にあるかを問われているのではないかと思います。神様の御言葉に聞き従い、神様を優先させる生き方こそが、まことの祝福された人生の秘訣です。この神様の約束を知りながらもなお、目先の利益を優先させる生き方をやめなかったユダの人々は、厳しい裁きを免れることはできませんでした。主イエス様が宮きよめを行われたときのように、神様はまことの礼拝者を求めておられます。そのご期待に応えて、何事も神様を第一とする生き方を選択する私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.17.19-23.ja1955
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【今日の聖句】 2018/04/12

2018-04-12 06:35:02 | 今日の聖句
詩編 94:19 新共同訳
わたしの胸が思い煩いに占められたとき
あなたの慰めが
わたしの魂の楽しみとなりました。

思い煩いに心を支配されてしまうと、私たちは自由を奪われ、喜びを失ってしまいます。慰めに満ちた主の御言葉はそんな私たちを思い煩いから解放し、魂に喜びを取り戻させてくださいますから感謝いたします。

http://bible.com/1819/psa.94.19.新共同訳
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