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随想古事記Ⅱ・神話と言語

2012-10-17 15:10:10 | 父の背負子1(随想古事記)
世界に現存する神話には、私達の日本の神話をはじめとして、旧約聖書に語られる神話やエジプトの神話、ギリシャ・ローマ神話、北欧神話、インド神話、中国の神話、そして世界各地の様々な神話等があります。神話という形に限らず、太古からの伝承も民族の数ほどあります。こうした物語には世界的に共通する部分が多くあります。初めてそれを知った時には不思議だと感じましたが、全人類の起源が同じアフリカで、世界各地に散らばったと解明されてみれば納得のいく問題だと感じています。神話は人類と民族の起源の痕跡に違いありません。

多様な民族の発生理由については、マクロビオティックの根本原則『身土不二』を知った途端氷解してしまいますが、それはダーウィンの言う世界中の動物たちの多様性の原因と同じだと思います。現在私達は皮膚の色素から白・黒・黄の色素人種に分類して何系彼系と言っていますが、およそ数10万年も遡ればほとんど一民族の中の顔付きの違い程度になるのだろうと思います。それに聞くところによると、出生直後の赤ちゃんは成人ほど皮膚の色の違いが明確ではないそうです。だとすればこれは後から獲得した地域差だろうと思われます。

現代を生きている人類はおよそ十万年前にアフリカを出発して一万五千年から一万年前迄にユーラシア大陸を経て南北アメリカまで全世界に人類が広く分布したと考えられています。この時の世界には最大公約数として五種族(『五色人の謎』でおはなししました)が区別されていたと、川崎先生の古代史学で解明されており、現在もほとんど変わっていません。東西南北を行き来する様々な相互間の干渉があって現存する多様な人種・民族が派生したと考えられます。

世界の各人種・民族は同じ起源を持っており、同じ自分たちの起源に関する初期の物語(つまりそれが神話であり言語)を持って世界各地に散らばり、落ち着いた先の諸条件で多様化していきました。習慣の多様化、衣服の多様化、言語の多様化、こうしたものはその土地条件に影響されています。石の無いところに石の文化は起こるはずもありません。手許に泥があれば泥を、植物があれば植物を使うようになります。定住できる食料を確保できた民族は頑丈で長持ちのする生活様式を選ぶでしょうし、遊牧民のように移動しなければならない民族は移動に適した家屋や生活様式を考案するでしょう。この多様化の過程に思いいたれば、私達の言語に関する多様化にも納得がいくだろうと思います。


神話の中には宇宙創世についての物語を持つものがあります。それは民族としてのアイデンティティに目覚めた人達によって辿られた記憶の歴史に違いありません。『自分達は何なのか(現在)』『自分たちはどこから来たのか(過去)』そして『自分達はどこに行くのか(未来)』、太古の昔も今も全く変わらないこの三つの問いの上にそれぞれの民族の特色が形成されていったのだと思います。創世記のお話がどれも混沌、あるいは何も無いところから始まる点では同じです。人智の極まる果て、それ以上考えることのできない始まりを混沌、あるいは無と認識したのだと思います。それ以前について考えることが能力を超えることであるのは、現代社会でも同じです。私達はビッグバン以前を知ることが出来ません。その回答がそれぞれの民族の神話であり、文明なのだろうと思います。そして最も重要なものがそれを語る言語だったのです。言語なくして解答を得ることは出来ません。

カタカムナの解明に尽くされた相似相学の宇野先生は、日本語を『命』と『生活』を同じ単語で済ますことができなかった民族の言語だと言っておられます。命あっての暮らしではあるけれども、日本人は『life』一つで済ませることができなかったのだと言っておられます。現代に生きる私達も外国語で表現しなければならなくなったとき、こうした戸惑いと無縁ではありません。日本人の外国語表現には、このような特殊性がいつも関与して、ついつい黙り込むことになるのではないかと思います。それは言葉の定義(生活・暮らし)の上に生きているのではなく、言葉の力(言霊・命)の上に生きてきた日本人の歴史なのだろうと思います。外国語の中にこうしたニュアンスを持つ自分の言いたい事にぴったりの単語を見つけることがなかなか出来ないのだろうと思います。言葉はその民族の必要性を映しており、ボキャブラリーはその複雑さを映していると思います。

互いの必要と心情を伝えるべく人類の言葉が発生し、その言葉によって醸し出された民族の心に突き動かされて神話が形成されてきたと思います。それぞれの民族の気の済むまでの、言わば専門分野を開拓するように言語はその幅を拡げていったと考えられます。それで神話は言葉の発生と展開の歴史でもあると言えます。最初私達がアフリカの地で人類となった時発していた言葉は、『ア』とか『ウ』とか、そういった音で理解しあえる範囲だったと思います。現在も類人猿たちが相互間に発信する信号音も私達人類の言葉の原型のようなものだと思います。そしてこの基本的な相互理解が現代の複雑な言葉の土台であることは疑いようもありません。その時の『ア』が今では『コ』であるということはあり得ないのです。なぜなら言語による相互理解は受信、認識、発信が一塊として重層的に密接に関係して発達して来たので、それぞれの基本音をもとに逆ピラミッド型に積み重なり組み合わさり絡みあって出来ています。起点を変えると言語脳は機能を喪失してしまう筈です。

百万年以上も前に出現した猿人や原人を経て誕生した私達新人は、前述したようにおよそ十万年前にアフリカの地を出発したといわれています。(参考ブログ記事:民族の形成)そして一万五千年前には全世界に広がって現在の多様な民族の元となりました。これは言語の世界にも言えることで、アフリカの一つのグループ内部で育んだ基本的音素が、全民族の基底音であることは間違いのないことだと思います。もしこれが違っていたら私達は人種の違いがあるのかもしれません。音楽が国境を超えているといわれるのも、音(波動)の共鳴という一種の理解の仕方が人類の脳の基底部にあるからだと思います。この共鳴に関しては動物ばかりでなく植物も、いえ全生命に共通していると思います。私達は地球上に吹く水や大気の力、つまり流れや風の音を聞いて進化してきたのですから。

音素の次に現れた音の組み合わせが言葉や文章ですが、数万年に及ぶ言語の歴史の中でこの組み合わせ方法にはいくつかの区別、つまり法則が出来、現代の文法というものまでたどり着きます。例えば否定詞を否定される言葉の前につけるか後につけるか・・・・これは私達日本語が「・・・でない」と後で否定するやり方であるのに対し英語や中国語が「not・・non・・」「不・非・・」という先に否定する違いです。言わば各民族の癖と云った方がよいかもしれません。好みの音と云うものもあったはずです。あるいは気候上の理由もあったかもしれません。口を開けることは、砂漠や寒冷地では最小限にしたい筈です。こうして子音の多様性も増していきました。言葉の多様性は条件の多様性の証明だと思います。人類が各地に散らばって行った証拠だと思います。そのどこかの段階に旧約聖書で言う『バベルの塔』の事件があるのだと思います。

文字の発明は遅くとも紀元前五千年くらいと言われていて、私達は有史時代を一万年も持っていません。そこにいたるまでの途方もなく長い人類の言語生活は一体どのあたりで様々な民族語に分かれたのでしょうか。神話の類似性はそのヒントにもなると思います。言語の発展史上決定的な出来事『文字の発明』はメソポタミアに住んでいた人々の業績だと言われています。これは五、六千年前だそうです。そしてこれが中国・殷では甲骨文字になったと言われています。独自に発明されたとの説も当然あるでしょうが、私は川崎真治先生の民族移動に伴う文字素あるいは造字原理の移動説を正しいと思っています。

文字は言葉と違って一定程度の文明の成熟が必要ですから、様々な部族民族が各地で成熟してから発展しました。しかし移動前に出来上がっていた基本的音素と言語は世界中の人々に受け継がれたと思います。それでその時までに出来上がっていた簡単な単語、文法の否定と肯定の方法、基本的数詞、感嘆詞(驚いた時、つまり魂消た時)などの基本的要素と単語づくりの法則のようなものも受け継がれたと考えられます(当然民族的な訛りによって変化して伝わっていますが)。そして、どの時点で別れたのかも、当然映していると思います。そして、カタカムナの楢崎先生や宇野先生が仰るように、日本語の単純な音素が世界中の言語に仮名をふることが出来るという、この特殊な事実をもっと解明すべきだろうと思います。

日本の神話や古事記の研究も、歴史の研究も、独自に専門的にやるのではなく、国民的研究事業として広く公開するのがよいと思います。これは私達国民の記憶遺産なのですから、国民の一人一人が相続人なのだと思います。数多くある通説や異説、様々な角度からの推理や検証、こういったものが一つの事実の裏と表とその交錯をいつの日か明らかにするだろうと思います。そして改竄説や捏造説の持つ裁判的態度を捨てて、真実の歴史探求に取り組むべきだと思います。真実とその理由は知ってもよいと思いますが、歴史の流れの末にいる私達が弾劾裁判をしたとしても、善いことは何も生み出さないでしょう。例え改竄され捏造されたとしても私達はその歴史の続きを生きていることを深く心に留めるべきだと思います。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
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