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随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史

2012-10-31 09:00:00 | 父の背負子1(随想古事記)
中国大陸の神話は三皇五帝のお話です。三皇のお話しはかなり神話らしいと思います。先ずは第一皇伏羲で、中国大陸の最初の住民を表しています。たいていの場合『女媧伏羲』としてペアになっています。共に蛇身人首で、川崎先生はこれが原初シナ人(川崎先生命名による。現在言う中国人ではない)で蛇族を母系とし、蛇族と通婚関係があった鳥族と言われています。(詳しくは関連記事『五色人の謎』でご紹介しました。)

私達の直接的先祖である新人最初のアジア人はこの原初シナ人で、アメリカ大陸原住民まで広がっています。私達の縄文人も同じですが、原初シナ人と同じように蛇族が海伝いにアジアを北上して日本に住みついたため、もっと海洋性を残していたと思われます。この中国大陸最初の新人達の姓は『風』で、川崎先生によると鳥をシンボル(トーテム)として採用しました。風は天から吹いてくるもので、鳥はその使者と考えられていたからです。
蛇族は海洋性があって風をさらに直接的に雲つまり雷としてそのシンボルを龍にしていました。風神雷神は常にセットとも言うべき類似性を持っていると思います。

第二皇は炎帝神農で牛族、この時代に中国大陸で牛耕の農業が始まりました。牛族と共に牛がやって来たので、彦星がこの炎帝神農、織姫は女媧伏羲の娘だったのかもしれません。第三皇が有名な黄帝です。黄帝内経という古典で有名な東洋医学の祖ともいえる皇帝です。この時代には人々が増えて栄えたのだと思います。文明が起これば、病気も起こって来ます。この偉大な黄帝も牛族です。三皇に続く五帝で有名なのは第四帝の堯と第五帝の舜です。堯舜の時代と後に仰がれる聖君による徳政の時代です。この五帝は川崎先生の教えに従うと、前の三人が鳥族、堯が犬族、舜が牛族です。神話伝説時代の中国大陸人は鳥と牛と犬の各部族です。その後興る初めての王朝夏は牛、次の殷王朝は第三帝嚳(コク)を始祖として鳥、続く周は牛です。

中国大陸では神話と歴史は完全に同じものとして語られています。そしてそれに続くものは賢人の教えとして道教や孔孟の教えが大切に伝え守られてかなりドライな国民性のように見えます。神話時代を担う国民が征服されて部族ごと移動して別の国の神話になったか、奴隷にされてその伝えるべき神話が埋もれてしまったのかもしれません。川崎先生は殷の神話が箕氏朝鮮・衛満朝鮮の神話だろうとおっしゃっています。朝鮮半島の神話がそれを今に伝えて高句麗の神話だとか、新羅の神話だとかになっています。この二つの神話のキーワードは鳥族のものらしく『卵』です。王たるべき天の子は卵から生まれてくるのです。

箕子朝鮮には檀君神話というものがあります。檀君は古代朝鮮の最初の王で、天帝の子桓因と熊の子供とされています。この熊というのに犬族のギリシャ神話の大熊座と小熊座の神話を思い出します。日本の神話とはかなり違っていますが、朝鮮半島の神話として大事にしたいと思います。熊というつながりは、アイヌ民族の熊祭りにもあります。その民族名『アイヌ』はまさしく犬族だとの表明です。犬族のシンボルには、犬を始め狼、虎、熊などがありました。(だとすれば箕子朝鮮は犬族で、李氏朝鮮が祖として当然かもしれません。)アイヌの人々が和人を『シャモ』と発音していたことは、和人が邪馬で鳥だと言っているのだと思います。現代私達が使っている軍鶏(シャモ)もここから出てきたのかもしれません。

高句麗や高麗の時代劇を見て、その衣装にアイヌ民族の美しい模様を連想してしまいました。奈良朝の衣装が中国式で違和感を覚えるのに対して、韓国で時代考証された高句麗や高麗初期の衣装に親近感を覚えてしまいます。何を美しいと思うかは、個々人の辿って来た不思議な曲がりくねった人類発祥からの記憶かもしれません。なにしろ私達は六十兆個の細胞を持っていて、その一つ一つの細胞は38億年の生命の歴史を記憶しているのですから。日本の神話の中に、お隣の国々の影響があるとしたら、それはその国の人々が入り混じったということだろうと思います。そしてその人達のお話も日本の神話の中に取り入れられて、というより民族が組み込まれていったということだろうと思います。私達は大和(だいわ)の国を作りました。実際的に言えば、作らねば成り立たなかったのだと思います。自他共に生かす大和の精神こそが、その時の日本人の最高の発明だったと思います。


最初国を作った太古の人々の国は家族を覆う屋根のようなものだったろうと思います。その屋根はそこに住む人々の一体感の象徴だっただろうと思います。ですから国という屋根は端から端まで、瓦一枚亡くすことが出来ないものです。これが国境の感覚です。そして国境を侵されることは、安全を侵されることでした。具体的に言うと、死ぬか、流民になるか、そして奴隷になるかのどれかでした。

私達一般の日本人にとって一番遠い感覚が、『奴隷』ではないかと思います。日本にも同時代の世界から考えるとかなり流動的なものであったとはいえ、身分制度は存在しました。江戸時代には士農工商の身分制度があり、その上には公家社会がありその下には制度がありました。明治維新後は身分制度が廃止され全国民一様に平民となりましたが、戦前には『士族』『華族』なる言葉が生きていました。『奉公人』も『小作人』もいました。でも『奴隷』はいませんでした。歴史を探っても『公地公民』の制度以後は少なくとも建前上はいなかったのだろうと思います。

奴隷とはどんな人たちなのでしょうか。古代社会の映画を見ると、洋の東西を問わす、鞭で打たれて働かされる奴隷がいます。『ベンハー』という映画を見たことがあります。誇り高い貴族のベンハーが捕虜になり奴隷となって屈辱に耐えながら仇討再興を誓う物語です。その時初めて私の頭の中に視覚的に『奴隷』という言葉が植え付けられました。殷帝国の人達は人狩りをしたそうです。祭壇に供えるためだそうです。生贄に鳥や獣と同列に他族の人間を供えたのだそうです。そんな風習が奴隷の起源ではないかと思います。

学生時代に読んだ『世界の歴史』というヨーロッパで編纂された歴史集がありました。その中に結婚制度は一種の奴隷制度だと書いてありました。一夫多妻の国では妻の数が富の証になっているそうです。少なくともヨーロッパ人もそういう精神構造になっているのかと思います。ともかくそんな悲惨な境遇は敗戦国の人々の運命でした。ですから『そこに生まれた』との理由で、自然に人々は自国の為に戦ったのだと思います。

奴隷について印象的な記述を、塩野七海著『ローマ人の物語』に見つけました。ローマ人の奴隷に関する考え方は『運が悪かった』ということに尽きるのだそうです。『たまたま負けたから』その国の人々がローマに奴隷にされたのだそうです。ですから奴隷の持つ人格も知識も大切にされて、家族同様の待遇を受けたのだとか。塩野七生氏は、恐らくローマの奴隷が世界で一番幸せな奴隷だっただろうと述べています。ローマの奴隷の持たなかったものは、生命の所有権と市民権だったのだそうです。市民権とは参政権のことです。そして当然の義務を負う自尊心のことです。国家を維持運営する為の納税の義務で、ローマで一番大切な税は兵役であり血税という言葉はここから生まれたのだとか。

ローマの奴隷が幸せであったかどうかは別にして、奴隷は一様に悲惨です。人類はそこまで人類を差別できるのかと思います。インドの身分制度は職分制度だと言われていますが、辛い仕事を他人に強要する奴隷制度です。中国大陸も朝鮮半島の奴隷制度も、ロシアの農奴制度も同じです。国が敗れれば、奴隷として連行されるのです。奴隷制度のある国はそれによって社会が機能していました。近世に至っても国家を運営する人々の頭は身分制度でがんじがらめです。十六世紀以降アフリカの人々がアメリカに奴隷として無理矢理連れて来られました。人狩り以外の何だったのでしょうか。恥ずべき人間の傲慢さだと思います。

日本では卑弥呼が隋に『生口』を送ったとの記録があります。『生口』とは奴隷のことです。『食べさせなければいけない機械』のような印象を受けて、それを知った時少なからずショックでした。邪馬台国が殷帝国の同族の鳥だったことを知って今は、その当時の日本人(という人々が居たとしたら)もなるほど同じ時代感覚を生きていたのだと思います。人狩りをする部族間の差別があったのだろうと思います。

鳥族が来る前の日本人は蛇族の縄文人です。中国大陸で蛇族が鳥族になったように、日本列島では現代縄文人と言われる民族がいました。私はそれを海津神(ワタツカミ)に率いられる海津(ワタツ)族と命名したいと思います。その海津族を奴隷にしたのかもしれませんが、その数は僅かだったと思います。卑弥呼が送ったとされる『生口』は確か六人でした。多分鳥(邪馬)族と海津族とは生活様式が全く違っていて住み分けたのだろうと思います。何しろ海津族は竜宮城に住んでいたのですから。

今年三月の東北大震災で分かったのですが、東北の人々は大事な家族をどうしても火葬で弔いたいと願っていました。一方九州、少なくとも北部九州の人々は土葬をという気持ちが土葬を禁じられた現在でも心の隅に残っています。これが何を意味するのかと言えば、東北には海津族の風習が、北部九州には大陸系の風習が残っているのだろうと思います。現在の日本人はみな混血の日本族になってしまいましたが、土地柄には色濃く古代の部族色が残っているのかもしれません。

仁徳天皇のお話しに殉葬を禁じたというのがあります。それを考えるとこの頃までは事実として奴隷がいたのだろうと思います。しかし日本に早くから奴隷を疑問視する心があったことを嬉しく思います。少なくとも古事記の編纂時、日本人は『労働』を神様の仕事にしました。すべてイザナギ・イザナミ両尊がお生みになった神々のはたらきとして表現しました。何しろ神様が機を織り、食事の用意をなさるのです。稲をお育てになるのです。水の神が汚れを落として下さいます。辛い奴隷の仕事は最も尊い仕事になりました。こうして日本人の心は神話により世代を追って蓄えられ、奴隷制度が日本に根付かない心情的な理由になったと思います。このことはアジアの中で日本を分かつ最大の特色だろうと思います。こういう意味でも日本の歴史は世界の実験だったと思っています。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
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