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随想古事記Ⅲ・大和の心1

2012-10-26 07:34:11 | 父の背負子1(随想古事記)
アマテラスから神武天皇(1-1)

古事記に語られている私達の国日本の神話と現実の歴史の接点は、『天孫降臨』とそれに先行する『出雲の国譲り』の二点です。しかし此処には大きな虚構があるとされてきました。それで神武天皇から開化天皇までは架空であるとか、あるいは神功皇后が天照大神だとか、その他様々な仮説が発表され、その上に邪馬台国論争まで入り混じって我が国の歴史論争は百花繚乱を呈しています。いまだに自国の歴史に現実的にも精神的にも明確な回答をもっていないことは世界的にも珍しい現象ではないかと思います。戦前までは精神的には信じていたのかもしれません。それが戦後国民の支柱ともなっていた歴史が科学的検証にさらされ、その希望は打ち捨てられました。形ある考古学的発見のみが検証に耐える証拠とされるようになりました。その結果私達の現代と結ばれる筈の国の始めは曖昧模糊としたものとなり、神話という物語としてさえ大方の人々の心から消えてしまったようです。しかし私達が決して忘れてならないのは、その神代の昔の物語に語られている音の響きは、現代私達が使っている日本語だということです。日本語は生きた形の無い考古学的証拠だと思います。文字ばかりではなく、音そのものも証拠になると思います。そして時代ごとの日本語の変化は、歴史的な事件や変動を意味しているに違いありません。古事記はカタカムナと川崎先生の歴史言語学的手法を取り入れなければ、決して解明できないと私は思っています。


神話を歴史の事実(あるいは事実を象徴する物語)として考える上での問題点はいくつかあります。避けて通れないと私が考えるものをあげてみたいと思います。
第一は、天照大神はなぜ葦原中津国を『我が皇孫』の知らすべき国なりと統治権を主張なさって、出雲の国譲りを強請されたのか。
第二に、それなのに出雲ではなく、なぜ日向の高千穂に皇孫ニニギノミコトは降臨されたのか。
第三に、そこが何故『韓国に向い笠沙の御前に真木通り、朝日の直刺す国、夕日の照り映える国』なのか。
第四に、倭国と邪馬台国は同じ国なのか。倭が大和なのか。
第五に、邪馬台国とは何なのか。卑弥呼とは誰なのか。
そして最後に第六、天孫降臨がいつごろのことなのか、という六点です。


問題四と五を合わせて『倭国と大和国と邪馬台国』から始めたいと思います。それは邪馬台国が事実として日本の歴史に挿入されているからです。邪馬台国とは、ご存知の通り、魏志倭人伝によって歴史上確認された国で、我が国の日本書紀にはありません。現在のところ、その国名については、ほぼ邪馬台国が倭(やまと)国であろうと、あるいは少なくともその語源であろうとされていますが、その比定地については依然論争の的です。近年考古学上の発見もあり、大和畿内説が有力視されるようになってきましたが、これはまだ分かりません。我が国の歴史が『記紀』を遠ざけるあまり、漢の金印も魏志倭人伝もこま切れで私達に与えられているからです。それで邪馬台国が私達日本人とどのような関係にあるのかも実際のところ明確に分かっていません。神武天皇の即位を以て建国されたとされる『大和』の国も否定されて、日本国民が心情的に依るべき建国記念日まで根無し草にされています。人間というものがその出自をもって自分のアイデンティティを確認するのですから、日本人としてこれは由々しき問題だと言わざるをえません。

魏志倭人伝と並行してその命名法から大和と邪馬台国の関係に迫ってみたいと思います。邪馬台国についてはブログ記事の『五色人の謎』シリーズや『私の邪馬台国』(『関連記事』をご覧ください)でも触れましたが、私は川崎先生の言われるように、言語学的観点を導入する必要があると思います。それ以外に解明の方法は無い、というのが私の40年以上にわたる模索の末にたどり着いた答えです。川崎先生によると『邪馬』は漢字の歴史では一貫して『猪』のことであるとおっしゃっています。『台』が『と』音の当て字であり、大陸半島系では『ト』は『トン(豚=猪)』であり、そして『東』でもあることから、構成主要民族が殷帝国と同じか、その末裔の鳥(猪)族であることは、命名した人間が明らかにそういう部族時代を生きている魏人である以上疑いがないのではないかと思います。そして『邪馬台国』と書かれた日本では自分達の国を『ヤマト』と呼んでいました。沖縄方言では近世まで日本人のことを『ヤマトンチュ(やまとのひと)』と呼んでいたそうです。

そしてもう一つ大変重要であると思われることは、魏志倭人伝の著者・陳寿のことですが、当時のヤマト国の内情についてはかなり精通していたはずです。確かに自分で述べているのですから実際に来たことはありません。それで地理については不正確かもしれません。しかし聞き伝えのそのまた聞き伝えで全くのでたらめというような不正確な事を記述したとは考えられません。歴史上の時間については分かりませんが、少なくとも民族については朝鮮半島についての記事と同じくらいの正確さで記述してあると考えたほうがよいと思います。そして魏人が周囲を卑しんで使った記述用の文字を選んで固有名詞などを当然採用しました。ですから邪馬台国は『ヤマト国』であり、『ヤマト国』は天孫降臨の日本最初の地です。

卑弥呼については、これは呼称で多分官名か職位の当て字だと思います。対馬と壱岐についての魏志の記述では大官(現地の防衛長官)を卑狗(ひこ)、副官を卑奴母離(ひなもり)とあります。卑弥呼の卑はその官名の文字の採用と同じで日、弥呼は巫女の当て字だと思います。ただ字はともかくも音はそういう音だったと考えるべきだと思います。それで卑弥呼という漢字の女王はいなかったけれど、『ヒミコ』と呼ばれていた女王はいたと思います。或いは日本人は『の』の音をはさむのが癖ですから、『ヒノミコ』或いは『ヒメミコ』だったかもしれません。そして卑『狗』という当て字が示していることは、犬族が殷帝国と同じように居たということです。アジアでは『邪馬』が殷の主要民族猪族(鳥族)の呼称であり、東アジアの国々の構成民族が、何処の国でも五色人と呼ばれる五族であったという川崎先生の説を私は支持しています。

魏誌倭人伝に『女王国は、・・・・帯方郡より海岸にしたがって水行し韓国をへて、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里・・・・・』とあります。『その北岸』とは何のことでしょうか。どう考えても『女王国の北岸』と読めます。この時代の女王国の国境は朝鮮半島にあったと思う以外にありません。その上国名が『狗邪』となっています。邪馬台国の卑狗が駐屯している国としても不思議はありません。それで任那に日本府があったのだし、神功皇后が朝鮮に出兵なさったのだろうと思います。

卑弥呼を神功皇后に比定する説もあります。神功皇后の日本名は『息長帯比売(オキナガタラシヒメ)命(ノミコト)』です。この帯を名前に持っておられる天皇は孝安天皇の『大倭帯日子(おおやまとたらしひこ)』、と景行天皇の『大帯日子(おおたらしひこ)おしろわけ』と成務天皇『若帯日子(ワカタラシヒコ)』と仲哀天皇『帯中津日子(たらしなかつひこ)』そしてその皇后の神功皇后『息長帯比売(おきながたらしひめ)』の五人の方々です。川崎先生は『帯』が日本音で『タラシ』または『タリシ』で『足』や『多利思』が当てられたりしているが、言語学的に追及して一種の官位名だと言っておられます。

朝鮮半島には帯方郡という名の郡がありました。王名の帯(たらし)は、案外帯方郡と関係があると私は考えています。元々『方』という字が異民族を意味していていたことを考えると、帯方郡とは『帯』という野蛮な民族がいる地方と言っていることになります。私はその民族が邪馬(猪)族だったと思います。楽浪郡(ナンナン)とは南から来た蛇族の住む地方で、那の津・博多と同じです。漢字を採用するにあたって、無意味な音の採用には古事記でも『音のみ』との但し書きまであります。採用された漢字には、漢字文化圏の共有する正確な意味があったはずです。

邪馬台国は、私達の想像をはるかに超えて、北は朝鮮半島の狗邪韓国から南は鹿児島までを含む九州全域以上であった可能性が高いと思います。邪馬台国について田平町(長崎県平戸市)説を唱えている私の同郷人もいます。田平町には縄文遺跡は勿論、日本有数の弥生遺跡があり、大陸系の支石墓もあり、円墳も多数あります。それに平戸・田平町は、その位置が確かに天孫降臨のニニギノミコトが仰せられた『韓国に向かい、笠沙の御前に真木通り』のそのままです。鹿児島県の野間岬に比定されている笠沙の御崎とほぼ同経線上にあり、朝鮮を望むことができる土地です。ただクシフル岳を何処に比定するのかが問題です。平戸地方の最高峰は『安満岳』と言います。天孫降臨の地に名前はぴったりです(*)が、ちょっと低過ぎのように感じます。しかし女王国の北岸が狗邪韓国なのですから、北部九州が勢力圏から外れることはないはずです。そして高千穂の峰は背振山かどこかで、海神宮は豊玉姫神社のある対馬かどこかという説も成り立ちます。
(*)安満岳(やすまんだけ)は『あま』岳です。『あま』は天神族の馬族を意味します。

その反対に高千穂が宮崎で海神宮が鹿児島であるならば、邪馬台国の都は南九州であるはずです。その上で『韓国に向かい笠沙の御崎に真木通り』、朝日が海から上がって夕日が海に沈む地というのはなかなか見つかりません。異色の邪馬台国研究家・宮崎康平氏の島原半島でも難しいのではないかと思います。『朝日の直刺す』というのが疑問の余地がないので、『夕日の照り映える』が海に沈まなくてもよいとすれば、この件に関しては九州の東海岸が最も条件にかなっています。高千穂が『韓国に向かっている』かどうかについては異論もありましょうが、標高を考えればそうでないとも言えません。

『笠沙の御崎に真木通り』が問題ですが、『真木通り』という意味が経線でなく緯線であったらどうでしょうか。それに『木』という字は『東』を示すのです。高千穂は霧島ということになり、神武天皇の周囲におられる吾平津姫のお名前に矛盾がありません。吾平津姫は鹿児島県姶良郡のご出身の姫君と言っているのですから。邪馬台国を九州全土として考えるならば、確かに『韓国に向かい、笠沙の御崎に(降臨地が)真木通り、朝日が直刺し夕日の照り映える国』です。(Great Peace)





それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
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