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随想古事記Ⅲ・大和の心3

2012-10-29 10:14:52 | 父の背負子1(随想古事記)
アマテラスから神武天皇(1-3)

神武天皇の大和入りの段は、昔から『東遷』か『東征』か、議論の分かれるところでした。『東遷』を採るのはアマテラスの正当性の主張に依り、『東征』はその現実を考慮した結果だと思います。古事記の伝承のように大和入りに何年もかかっているのを考えると、現状はそれほど簡単ではなかったことが分かります。それに大和朝廷が確立する以前の権力争いは、大陸や朝鮮半島と同じようなものだったろうと思います。兄宇迦師(エウカシ)・弟宇迦師(オトウカシ)と兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の二兄弟の物語があります。どちらも神武天皇に敵対する兄を裏切る弟のお話です。これはあまり気持ちの良いお話しではありません。でもこれが当時の状況だったのだろうと思います。そして敵対した兄の側にもちろんちゃんと言い分があったはずでしょうが、その痕跡を古事記は伝えていません。歴史とはそんなものだと思います。あるいはそれが出雲の建御名方の言い分だったのかもしれません。

建御名方は建南方で、建雷と蛇族同士、兄弟だったとも言えます。ちなみに宇迦師(ウカシ)兄弟は牛族兄弟、師木(シキ)兄弟は犬族兄弟です。この二つの兄弟はその名前に『師』という字を持っています。これが八十梟師(やそたける)の反抗の物語なのだと思います。現在の大和地方にも神武天皇時代に先住の五族がいたと考えるべきです。神武東征時代は出雲も大和もスサノオ系の牛族が君臨してその下に蛇、鳥、犬がおり、馬もいたかもしれません。

この東征劇が人道的か非人道的かということは論外ですが、ただ一つ嫌なのは兄宇迦師を討った後の弟宇迦師の開いた宴会の場面です。兄をコナミに、弟をウワナリに例えて歌う(久米歌)場面です。コナミは前妻、つまり古女房。ウワナリは後妻、つまり若女房。コナミには実の少ないところを、ウワナリには実の多いところを分けてやろうと囃して歌い笑います。

ウダノタカキニ シギナワハル ワガマツヤ・・・・・・コナミガナコハサバ タチソバノミノナケクヲ コキシヒエネ ウワナリガ ナコワサバ イチサカキミノオオケクヲ ・・・・・・

如何に男ばかりの場面だと言え、現代の私には納得できません。憤慨しています。こんなにも実の無い人間ぶりを歌うことに何の躊躇いも感じない人達だったのだろうか・・・・と古女房である私は理解に苦しんでいます。


神武天皇はこの後登美(とみ)の長脛彦を討ち、大和にお入りになって橿原で即位なされます。当時の大和はニギハヤヒノミコトの支配下にありましたが、支配権を神武天皇にお譲りになったとされています。そして神武天皇は天孫降臨以来の伝統的方法で(つまりクニツカミの娘を選んで)皇后をお立てになるのです。それがイスケヨリヒメと言われる方ですが、三輪山の大物主神の姫君です。その姫君をお迎えに大久米命(オオクメノミコト)が行きます。その時にイスケヨリヒメが歌でお尋ねになります。

あめつつ ちどりましとと など黥(さ)ける利目(とめ)

最初の行の『あめ』以下『ましとと』までは鳥の名前だそうです。問題は『など』以下の問いの句です。鳥はたいてい目に黒い縁取りがあるように見えます。瞼がそんな風になっているのをご覧になって、それにかけて『どうして(鳥の目のように)入れ墨で黒い縁取りをして鋭い目をしているのか』とお尋ねになったのです。オオクメノミコトを犬族だと知っておられて、『鳥の目のように』とおっしゃったのでしょうか。

魏志倭人伝に、倭人(邪馬台国人)には文身の習慣があるとの記述がありました。それを知った時、アイヌの人達を思ったものです。川崎先生によると蛇族の人達は水流を意味する『三』の文様を入れ墨し、犬族の人達は『十』字・『×』字を入れ墨することが多いらしいのです。何れも魔除けのためです。守護神の加護を願ったものと言われています。またエジプトの人物像には必ず目の隈取りがあります。クレオパトラの目もツタンカーメンのマスクにもありました。アイヌの人達もクレオパトラも犬族です。大久米命も犬族だったのでしょう。ともかくイスケヨリヒメは不審に思われたのですから、当時の現在で言う『大和』では入れ墨をしていなかったと推測できます。大物主は大国主命の時代に海の彼方からやって来たことになっており、その正体は白い蛇ということですから蛇族ということになります。白い蛇というのがちょっと気になりますが、畿内の蛇族は入れ墨をしなかったのでしょうか。

神武天皇が畿内にお入りになった時に、現在の大和地方が初めてヤマトになったと川崎先生は指摘しておられます。それが『カムヤマトイワレヒコ』のお名前です。ニギハヤヒノミコトの国号が分からないので何とも言えませんが、『登美』だったのではと思います。『登美の長脛彦』の登美で、実体は『鳥見』だったのかもしれません。それが川崎先生のおっしゃる神武天皇が『片居(鳥族の地)』を『伊波礼(犬族の地)』に改名なさったという伝説でしょう。或いは前述したように畿内が『出雲』か『於投馬』だったかもしれません。そうすれば出雲の国譲りの意味も筋が通ってきます。ニギハヤヒノミコトはスサノオノミコトの子大年神という説もありますので、第二の出雲王国だったかもしれません。何より大物主が出雲ではなく三輪山に鎮座なさっているということがその証拠となるのではとも思います。

神武天皇の畿内入りで、邪馬台国の倭が東の大和の国『日本』になっていくスタートラインに立ったと言えます。神武天皇の国号が『大和』であったことは疑いようもありません。それは部族名『倭』をそのまま邪馬台国の読み名『ヤマト』とし、五族みなを纏め上げて『八紘をおおいて』一家のようにしようと決意なされたその時に確立した国名です。私達の大和の精神は神武天皇のお心、或いは神武天皇のお心として表現された大和朝廷の理念です。

一方『大和』の『邪馬』が『猪=豚』であり『東』であることを時の朝廷は熟知しており、後に聖徳太子は『東』が直接太平洋から日が生まれて来る日の本の国であるとの誇りを国書として隋に送られました。それで大和朝廷は国号に『日本』を選んだのだと思います。そして『日本』を『大和』と同じ音でも読むことにしました。日本では『日本』も『大和』も『東』もみな『ヤマト』と読むのです。大陸から渡ってきた邪馬台国は当然漢字を知っていました。『ジャパン』の元とされている『日本』、つまり『ジッポン』は音からも採用される蓋然性を持っておりましたが、その根拠は『ジャバ(邪馬)』にあったのです。この展開に異論をはさむ余地は無いのではないかと思います。

この『日本』という国号を採用した当時の大和朝廷が、神武天皇の犬族ではなく天神族の馬族であるというのが、最大の秘密であり記紀の編纂理由だとする説があります。つまり馬族の天照大神の皇統の中に、邪馬台国系の神武天皇を入れ、スサノオから投げ飛ばされた馬の地を取り戻し、どこかでまたアマテラス系の皇統をつないだと言っているのです。確かにスサノオが天の機屋に投げ込んだのは馬の『天の斑駒(ふちこま)』でした。この『斑』という字には『斑鳩』という飛鳥の地名もあり、かなり深い意味合いが込められています。前述の『ツカル』が『猪族の』であったように、『イカル』は『犬族の』という意味ですし、その字義から斑模様が連想されます。馬の住む飛鳥はまだらに犬の住む斑鳩であったのかもしれません。


古事記の編纂をご命令になった天武天皇には多くの焦点が当てられています。その漢風諡号には悪王で名高い殷の紂王を討った周の武王を擬えてあるとされています。その上理解に苦しむことに兄君である中大兄皇子の天智天皇にはその殷の紂王が匂わせられているそうです。邪馬台国系の殷が討たれたことを暗示するかのようです。この諡号に関しては後の人間が作ったのですから、私は天武天皇のお心だとは思いません。それよりもなお、古事記の中に秘められた『大和』の国を受け継いでいくお心を大切にしたいと思います。

王族が邪馬台国の犬族から天神系の馬族に変わることができるとすれば、天武天皇の直近では継体天皇の事績に考えられます。その諡号からも意味を感じられる継体天皇は皇后に武列天皇の妹君・手白香皇女を立てられました。これはニニギノミコトがコノハナノサクヤヒメをお迎えになり、山幸彦が海神の娘豊玉姫と結婚なさったのと同じです。その間にお生まれになったのが欽明天皇で、国風諡号に初めて馬族を意味する『天』の字をもっておられます。次は天智天皇と天武天皇の母である皇極天皇までありませんが、それからは数代にわたって『天』の字をもっておられます。天智天武の両天皇は漢風諡号にも『天』の字を合わせてもっておられます。それ以前にも応仁天皇にそういう可能性があるとか、様々な学説が立てられています。もしかすると元々アマテラスの王朝は『天の斑駒』、つまり犬族と馬族、そして牛族の合同だったのかもしれません。

天武天皇が編纂の号令をかけられた古事記にはそういう意味で改竄説も様々に語られています。世界の歴史が伝えているようにそれもまた真実かもしれません。しかし国号を継ぎ国柄を継がれたということに、日本と皇統(統治の理念)の継続性の祈りを込められたのだと思います。そしてそのための事業が物語としての古事記の編纂だったと思います。また漢字によって記された外国の歴史書と、日本語によって記憶された私達の歴史とは符合すると思っています。記紀に邪馬台国は出てきませんが、『大和』は出てきます。自国の歴史に卑字を利用するほど、古の我が国の政治家や学者が卑屈ではなかった証しだと思います。そして川崎先生がおっしゃるように、古代の土地や人物の名前を研究すれば、学問としての真実を裏付ける証拠となるはずです。一方国民の記憶の物語・神話にはアイデンティティの継続という役割が与えられたと思います。(Great Peace)




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
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