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随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ

2012-10-12 09:10:38 | 父の背負子1(随想古事記)
次にウヒチニ・スヒチニ、ツヌグイ・イククイ、オオトノジ・オオトノベ、オモダル・アヤカシコネ、次にイザナギ・イザナミ。

かくり身の神々という現実の形を持たない段階を踏まえて、次に現れるのは雌雄一対になった五代の神々です。最初に現れるウヒチニ・スヒチニの夫婦神から最後に現れる『イザナギ・イザナミ』の夫婦神まで、これらの神々がどのようにお生まれになったのかは不明です。『おなり』になったのか、前代の子としてお生まれになったのか、何処から妻の神を迎えられたのか全く分かりません。そして古来私達が『ふたかみ』とお呼びするのは最後のイザナギ・イザナミ両尊です。現代に残る二上山も、このイザナギ・イザナミ両尊をお祀りする山です。ここからがわが日本の歴史の始まりだと思います。

この二神の事績にも謎が沢山あります。第一に、この二神に誰が国生みをお命じになったのかということです。神代七代という原初の世界に、急に高天原らしき天界が既にあって、沢山の神々がいらっしゃるらしい・・・・・ともかくもその神々の御命令により二神は天の浮橋(アメノウキハシ)にたたれて、いただいた天のヌボコで混沌の海をかき混ぜられます。そして引き抜かれたヌボコの先からほとばしり落ちるしずくが滴り固まって『オノコロジマ』が出来ます。その時の天地に吹き渡った風の音が、『コオロ、コオロ・・・・』これが私達の地上の世界に初めて物が固まったお話です。このオノコロジマに降り立たれて二神は国生みを開始されます。

この二神の国生みの段には冒頭から疑問があります。唐突に人類をも含む哺乳類の生殖の確認がなされるのです。人体構造の確認から始まるこの人間臭い描写が一体どういう意図でこの場面に必要なのか、文学的との評価もあるようですが、私にはパッチワークのデザインのミスマッチのように感じます。古事記にはこうした記事が数か所あって、それが古代人のおおらかさとか言われていますが、それは違うような気がします。何か今は分かりませんが、何れ究明されるべき問題だと思います。

次にオノコロジマの結婚の場面で、イザナミノミコトに八尋の柱を右回りせよ、自分は左から回ろうと提案されたイザナギノミコトですが、出会い頭に妻のミコトが先に「あなにやし、え男を」と言問いの主導権を握られます。こうしてお生みになった最初のお子様はヒルのようで骨が無く国の形を作ることが出来ませんでした。大変悲しまれてそのわけを高天原の神々にお伺いに行かれます。お答えは、『女が先に声をかけたから』というものでした。

この件は、現代で言うところの『男尊女卑』の観念が出来上がってからの脚色のように言われてきました。実際脚色はあったと思いますが、それはあくまで脚色であって、脚色される筋書きというか、秩序というか、力の発現の法則は神代から現代までを貫く真実です。

そもそもイザナギ・イザナミ両尊の『言問い』とは何でしょうか。それは最初に動くものとそれに続いて起こるものの象徴です。最初に動くものはそれまで動かなかった『ナギ』であり、それによって引き起こされる力の伝達が『ナミ』です。これはそのままタカミムスヒであり、次にカムミムスヒです。根源の『アメノミナカヌシ』は私達の地球上にはまず『タカミムスヒ』として示され、『カムミムスヒ』として働くのです。そしてこれは次々に繰り返されます。『ナギ』が『ナミ』を生み、次に『ナミ』が『ナギ』を生みます。最初に生まれた配偶神が『ウヒ(生まれ出るヒ)』と『スヒ(進んでいくヒ)』でした。因が果になり果がまた因になる応報が繰り返されるのが、天地開闢以来私達の真実です。

動物界では少なくとも魚類・両生類以後はオスがメスに求愛しています。先ず衝動にかられるものはオスです。もしかするとヒルはそういう雌雄の差がないのかもしれません。オスが先導する世界でも圧倒的な拒否権をメスが握っています。メスがオスの生存力を試してふるいにかけるのです。生存力の強さを魅力とメスは感じているに違いありません。メスが好ましいか好ましくないかという判断を下しています。野生に近い状態の人類も多分同じだったことでしょう。文明下の人間社会においても男が求婚するのが長い間の伝統です。現代ではだんだん無視されていますが、どちらかと言えば物理法則とでも言うべきもので、『男尊女卑』とは関係の無いものです。『ホツマ伝え』には天照大神の姉君若姫が拒否できない回り歌と云う恋歌をアチヒコに送ってプロポーズをして神々を慌てさせるエピソードが紹介されています。その回り歌(最初から読んでも最後から読んでも同じ音の歌)を御紹介しましょう。

『きしいこそ つまをみきわに ことのねの とこにわきみを まつそこいしき』

この歌をもらって当惑したアチヒコは、神々に相談しますがどうにもなりません。一旦発せられた言葉は変更することができません。言葉の持つ力はそれほど強いのです。仕方がないので、天照大神の命令で住吉の神が仲人となり結婚なさいました。かなり現代的ですが、この言い伝えが結婚式に高砂を謡う仕来りになったのではと思います。


人間は社会構造によって様々な規則をつくってきました。その規則が人間性を規制しています。人間は社会に束縛されてもいますが、その社会に守られてもいます。例えば動物のように天敵に襲われて命を落とす確率はほとんど無いし、動物界では当たり前の横取りという泥棒行為も法律で禁止して、弱いからという理由で取り上げられることは無くなりました。権利という観念を作りだし、法律に従うことを社会の規則にしました。社会は人間にとって哺乳類の胎盤の次に獲得した進化物かもしれないと思うくらいです。人類は社会の維持なしには人間ではありえません。それで社会で最も大事な事は社会の維持ということになったのだと思います。

『男尊女卑』は社会観念の副産物です。というより秩序維持の副産物と云うべきでしょうか。秩序の維持に男の方が多くの役割を果たしてきたのだと思います。秩序とは力で守るべきものだったからです。そしてそのことが権力を生んだのだろうと思います。現代社会のようなコンセンサスが無かった時代を私達は生き抜いてきました。時代によっては女の言い分が黙殺されて来たこともあります。そういった男の言い分、女の言い分は、現代では『人間らしく生きる』と言うところに集約されていますが、『生きる』という生命活動にはあまり関係ありません。それにいくら男尊と言っても男の社会は女無しでは成立しません。彼のローマの創立者ロムルスの最初の仕事は、近くのから女をさらって来ることだったそうです。男ばかりで建国したため社会が成り立たなかったのだそうです。男には妻が必要でした。要するに『男尊女卑』は力の目盛で見た場合の現実であることを、現代社会の私達はもう一度確認すべきだと思います。権力社会は、極論すれば、男のものです。

次に正しいナギ・ナミの順序を持ってイザナギ・イザナミ両尊は国生みに力を合わせてお進みになります。大八島の国を生み、様々な国土を構成する神々と役割りを持った神々をお生みになりました。ですから私達はみな神々の子孫なのだと信じてきました。神とは人間の上(かみ)で、私達日本人はみなこのイザナギ・イザナミ両尊がお生みになったのだと信じてきました。こうして私達の大八島の国は美しい国土となり、最後にイザナギ・イザナミ両尊は火の神様をお生みになります。そして火の神様によってイザナミノミコトは火傷を負われ亡くなってしまいます。イザナギノミコトは悲しみのあまり怒りに我を忘れられて、火の神様を切り殺しておしまいになります。この火の神様を『カグツチノミコト』というのですが、この神様の血液から鉱業の神々と鍛冶の神々がお生まれになり、そのお体からは鉱山の神々がお生まれになりました。

イザナギノミコトは亡くなられた妻を追って黄泉の国を尋ねて行きます。これはなかなか面白い伝承だと思います。イザナギノミコトは愛する妻に語りかけられます。「愛(うつく)しき我がなに妹の命(なにものみこと)・・・・・還るべし」。イザナギノミコトも不可能だと知ってはいても、『愛しき我がなせの命』のお言葉が身にしみて、「黄泉神(よもつかみ)と相談するから」とおっしゃって絶対に覗かないとのお約束を取り付けて行っておしまいになります。

ここで22年出版となった『マクロビオティックに学ぶ暮らしの知恵』p.69第二章『食とは何か』、イザナギの黄泉の国訪問の場面を引用ご紹介したいと思います。この本のテーマが食と健康を基本に据えたマクロビオティックの御紹介だったので、観点が少し違っていますが、お楽しみいただけるのではないかと思います。


イザナミノミコトは妻である自分を慕って黄泉の国に迎えに来られたイザナギノミコトに「すでに黄泉の国の食べ物を食べたから帰れない」とお答えになりました。イザナミノミコトのお体は食べ物によってウイルスやバクテリアの支配する世界のものに変性していました。食べ物によって住む世界が異なることを日本人は知っていたのです。イザナギノミコトがあきらめて黄泉の国からヒノモトの国にお帰りになろうとすると、黄泉の国のシコメが追ってきます。つまり感染地帯から清浄な地域に戻るためには、ウイルスの感染力から逃れなければなりません。そこでイザナギノミコトは身につけておられる飾り物を投げられました。するとそこに葡萄の木が生えて熟した葡萄の実がなり、シコメは葡萄の実を貪り食べます。おいしい葡萄はウイルスの住む黄泉の国(還元世界)との中間地帯の食べ物なのです。そしてそこに自分の食べるべき物があれば食べずにいることは出来ないのがこの世の生命の仕組みです。
イザナギノミコトは身についた黄泉の国の住民の食べるべき物を投げ捨て清浄になられてヨモツヒラサカに戸を立て、やっとの思いでシコメ、つまりここで言うウイルスを遮断されました。



この続きはブログ記事に『足引きのヨモツヒラサカ』としてご紹介していますが、『なにもの命』『なせの命』と美しい愛の言葉のやり取りが蛆のたかる肉体を前に真っ逆さまの大転回・・・・・神話の語り部は現実主義者です。男の思い込みを見事に曝しているとしか思えません。『百聞は一見にしかず』というとおり、目に焼き付いているイザナミノミコトの美しいお姿も、耳に残る美しい声も吹き飛んでしまい未練はありません。命からがら逃げに逃げて『筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)』に辿り着かれたイザナギノミコトは、身についた穢れを祓おうと川に入って禊をなさいました。穢れのついた物を脱ぎ捨てるたびに、水に身を沈められるたびに様々な神々をお生みになり、最後に私達がよく知っている天照大神、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトをお生みになります。左の眼から天照大神、右の眼からツクヨミ、最後に鼻をすすがれるとスサノオがお生まれになりました。サッパリ清らかなすがすがしい気持ちになられて「最後に素晴らしい子を得た」と大層お喜びになります。

ここで大きな不思議、あるいは矛盾にぶつかってしまいます。最初に確認した両性生殖の原則は何だったのでしょう・・・・。最初の天の御柱巡りは一体何のためだったのでしょう・・・・。


男寡(おとこやもめ)になられたイザナギノミコトは独りで最後の神生みをなさった後、天照大神は高天原を、ツクヨミノミコトには夜の食(お)す国を、スサノオノミコトには海原を治めよと命じられて神話でのお役目を終えられ、主役の座をアマテラスとスサノオの御姉弟にお譲りになります。イザナギノミコトの最後のお仕事は、ご命令を聞かないスサノオノミコトの追放でした。そしてスサノオノミコトが姉君を訪ねて高天原に上っていかれる有名なくだりに展開していきます。次回は『アマテラスとスサノオ』です。(izanagi & izanami)




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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