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2018・11・3、随想古事記のご紹介

2018-11-03 09:26:32 | 父の背負子3(雑記)

私の恒例行事、『父の背負子(随想古事記)』のご案内の日を迎えました。この記事内容の証明をする時間はもう私にはありませんし、その意欲もありません。(です、が)、どなたか後生に興味をつなぎたいと思い、しつこく繰り返しています。小学生の子供だった頃から60年抱き続けた疑問の数々・・・・・私の中では、はっきりと認識することが出来て個人的な気持ちの上ではすっかり解決しましたし、大まかに正しいと確信しています。だけどこれは私個人の問題ではないと思っています。これは日本人の問題だと思って、毎年2回繰り返しているというわけです。私のブログを読んでくださる方々に感謝しています。

疑問その1:ギリシャ神話のゼウスはなぜ牡牛に変身するのか。

疑問その2:織姫・彦星の天帝とはだれなのか。

疑問その3:どうしてアマテラスはスサノオの国を自分の子の国だと主張なさるのか。

疑問その4:どうしてトヨタマヒメは『ワニ』になってお産をされるのか。

疑問その5:どうして三輪山の神は蛇なのか。

疑問その6:邪馬台国はどうなってしまったのか・・・・・・・・・なぜ聖徳太子は『日本』という国号を採用されたのか。

そして、疑問その7:なぜ万葉集の東歌はあんなに素晴らしいのか・・・・・・・・・等々、私は自分のそれこそ一生をかけて導き出した答えに自信を持っています。大筋は間違っていない・・・・・と。つじつまが合うのですから!!!!!それで毎年ご案内の記事を書いています。以下がカテゴリ・父の背負子(随想古事記)の内容です。

 

 

父の背負子(随想古事記)

        父の願い   2010-04-30
        私の邪馬台国   2012‐10‐04
        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05
        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09
        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12
        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15
        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17
        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17
        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24
        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26
        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27
        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29
        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02
        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04
        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

          アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 

もう一つ大事なことを確信しています。『人間の一生』とは何か?・・・・・この個人主義の時代、個人の幸福の追求こそが目的視されていますが、そんなもの死んでしまえば元も子もありません。70年生きてしみじみ思います。若い浅田真央選手の『アッと言う間でした』という感想に共感を感じたのも、そんな『アッと言う間』の積み重ねで今ここにいることをよくよく感じているからです。自由も権利もありません。そのようなものは『ある』と思っているからこの人間社会には今のところ通用していますが、傍らに生きる猫や犬、家畜、野生の動物には無縁のものです。私達は平気で傍らにあるものを無下に無慈悲に扱っています。ですが、そんな生き物と同じように、私達は前の命、つまり先祖の『コピー』にしかすぎません(すぎませんが、これが一番大事です)。私は先祖のコピーであり、先祖は私として今を生きています。先祖の知りたかったことを探求し続け、私の知ったことが先祖の知ったことになります。そうです、私達は先祖の続きなんです。このことを思い知った時、私の先祖は私が今負っている『父の背負子』を渡し続けてきたのだと、懐かしく恋しく思います。それで毎朝の習慣・・・・・顔を洗って鏡の中の自分に挨拶をします。

                                「お父さん、お母さん、おはようございます!!!!!」

それから仏壇にお茶を備えて、日蓮上人の開経偈を唱え、白隠禅師の延命十句観音経を3回繰り返して朝の日課を終えることにしています。思い出せば、姑は毎日坂道を登って墓前にお水を備えていました。今となっては分かりませんが、それが姑のコピーとしてのお勤めだったのかもしれないと、共感をもって懐かしく思い出しています。

そもそも先祖の知りたかったこととは何か・・・・・・それは意識を認識してしまった人間の宿命(?)である『自分とは何か、どういうわけで自分になったのか』という疑問の答えを見つけ出すことだったと思います。『長生きをしたい・・・・・』という希望は、『それをまだわかっていないけれど、いつか・・・・・』という期限延長願望の裏返しだったと思います。『自分とは何か』、ひいては『人間とは何か』、さらには『今あるということはどういうことか』・・・・・ただ長生きをするために奔走している無目的化した現代人間のコピーは悲しいと思います。何一つ不自由のない王子『釈迦』の苦悩は現代人の苦悩だと思います。時間とともに知りえることも増えて、少しずつ修正する必要もあるのかもしれませんが、それもどうぞよろしくお願いします。ただ長生きするだけのために長生きをしていても、『アッと言う間』に期限を迎えるのだと思います。知るべきことを知らずして、何の甲斐があるというのでしょうか・・・・・?????


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