ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2011.6.24 奇跡 ~I wish~

2011-06-24 21:54:39 | 映画
 先日、映画「奇跡」を観た。
 英語のタイトルは「The Miracle」ではなく、「I wish」だという。

 キャッチコピーは「九州新幹線の一番列車がすれ違う時、奇跡が起きる。そんな噂がすべての始まりだった-」。
 「離れて暮らす家族の絆を取り戻すため、奇跡を信じた子供達、家族が一緒に暮らすこと。そんな当たり前が、ぼくたちには奇跡だった。」という車内吊り広告や予告編等も観ていたので、夫は「ややこしいのはパス!」とのこと、一人で観た。

 とにかく子供達が主役の映画だった。私の好きな俳優がデリカシーに欠ける先生役でちょっぴり顔を出していたけれど、名優揃いの大人たちはあくまで脇役。3月までNHKの朝の連続テレビ小説でタミオ君を巧みに演じていた「まえだまえだ」のお兄ちゃんが、実際の弟と一緒に主役の兄弟を演じている。演じているのか普通の兄弟の様子なのかわからないほど、すっかり自分達のものにしており、しかもあざとさを感じさせず、舌を巻いた。

 子供達には脚本を一切渡さず、当日のシーンの説明と台詞を監督が口頭で伝えるという撮影方法がとられたという。まさに、「侮るなかれ、子供達、恐るべし、子供達」であった。子供達のやりとりや喋り方、微妙な表情が実に自然で、驚いた。

 数年前に訪れたことのある九州の駅や風景が、とても懐かしかったが、思いのほか新幹線そのものは出てこなかったので、鉄男の息子が見たら、ちょっと不満かもしれない。
 そして桜島のこんな近いところで、噴火しようが灰が降ろうが人々が普通に暮らしている力強さ、かつて中村清吾先生の講演やエッセイにあったとおり「“富士山”より“桜島”」のことをまた思い出し、勇気をもらった気がした。

 結局、クライマックスのシーンでそれぞれの子供達が自分の願いを叫ぶのだが、主人公の兄はあれほど強く頂いていた願いを放棄して、最後に「家族」よりも「世界」を選択する。
 編集者でライターの門間雄介さんがパンフレットのコラムに書いている通り、「この『家族より世界を選んだ。』という一言は、少年の父親が発した言葉を、その後少年がくり返すシチュエーションだが、今見るとまた別の感動を伴って胸に突き刺さってくる。それは「3.11」後を生きる人々の思いと、なにげない日常を慈しむ言葉があまりにぴったりと重なり合うからだ。」というくだりにあらためて胸をつかれた。

 だからこそ「奇跡=The Miracle」というよりも「願い=I wish」という英語の題名だったのかもしれないが、それこそ、願いが叶うことそのこと自体が奇跡(I wish=The Miracle)なのかもしれない。そして、何より家族がともにいられることも奇跡なのかもしれない、と思う。

 私だったら、何を強く願ったのだろう、と考えた。「病気が完治しますように・・・」だろうか。が、やはり土壇場になったら口をつぐんでしまうのかもしれない。昨年末からこの半年間で患者会での知人の訃報が相次いでいる。こうして生きていることも、本当に奇跡なのかもしれない、とついつい弱気になってしまう。

 今日は隣県熊谷市で、6月としては最高の39.8度を記録したという。本当に朝から暑かった。まだ暑さに体が慣れていないことと副作用もあいまってかなりバテ気味だ。勤務先では今日も当然に空調は切られていて、窓を開けて扇風機だけなので、午後からの講習会に薄着で出かけたところ、車内と本庁の会議室はしっかり空調が効いていて寒いほどだった。そして外に出るとまたビルからの熱風。体調管理が実に難しい。
 投与後の気持ち悪さは夕方くらいまで続いたが、ようやく収まってきた。とにかく水分をたっぷり、食べ過ぎない、に越したことはなさそうだ。

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2011.6.23 「あとしか」さんほど忙しい?

2011-06-23 19:17:55 | 日記
 日経BP社のネット記事で「なるほど」と思い、かつ自分自身を振り返って反省したことがあったので、抜粋して転載させて頂く。

 ※  ※  ※(転載開始)

臼井流 最高の結果を出す人の話し方(臼井由妃)
「まわりの人を困らせる、忙しがりやの「あとしかさん」になっていませんか」(2011年6月23日)

○余裕がない言葉
 『いつも、「余裕のよっちゃん」で、いたいわ』 何気なくつぶやいていた私に、『社長、「よっちゃん」とは、どなたですか?」スタッフが、不思議そうな顔で尋ねました。
 『えっ、嘘でしょう。あなた、「余裕のよっちゃん」を、知らないの』「余裕のよっちゃん」は、かつて仲間うちで、軽いギャグとして使っていた言葉です。私と同世代の方には、「懐かしい」、「そう言えば使っていたよね」と思い出される方もいらっしゃるにではないでしょうか。
 「余裕のよっちゃん」は、語呂合わせから生まれた言葉だと思いますが、若いスタッフにとっては、なじみがない。平成生まれの方には、もはや死語。いわゆる「寒い言葉」なのかも、しれませんね。
 ビジネスの場で、このようなギャグをやたらと飛ばすのも不謹慎かと思いますが、笑いの要素は、場を和やかにするのは確かです。ですから、寒いギャグであろうと、時には必要だと思います。
 目をつり上げて、「忙しい」を連発する人や、腕まくりをしながら、「時間がない」が、口癖になっている人、「駄目」「ムダ」「どうせ」など、気分が滅入る言葉を言う人。こうした「余裕がない言葉を使う人」よりも、ギャグを飛ばす人の方が、好感をもたれます。「オヤジギャク」だとか、「古い」と言われても、受け入れられるのです。 それは、笑いには余裕を感じるから。また笑いによって、緊張した空気が変わるからです。
 一方、余裕がない言葉を浴びせられたら、どうでしょうか。周囲は焦ったり緊張したり、不測の事態を招くこともあります。さらにいえば、余裕がない言葉を使う人とは、積極的に付き合いたいとは思いません。 追いまくられるようで不快ですし、命令されているような感覚も抱きます。ですから、応援や協力も得にくくなって、仕事もはかどらず、ますます余裕がない状況になってしまうのです。

○「あとしかさん」では、ありませんか?
 仕事ができる人や有能な人ほど、「忙しい」とか「時間がない」とは、言わないものです。これらの言葉を使うことは、段取りが悪い、決断できないなど。ビジネス能力の不足や見極めの甘さを、公言しているようなものだからです。 しかし、「忙しい」「時間がない」と口にすることが、世の中から認められている。頼りにされている。これらの言葉が、人気のバロメーターのように、誤解している人もいます。
 かつての私もその一人でした。「ああ忙しい」(私だけ)「時間がないわ」(早くしてよ)。勝手に忙しがっているだけなのに、「少しは私に配慮して欲しい」という思いを、にじませていました。 常にこんな調子ですから、「あと」「しか」も、頻繁に使っていました。「出かけるまでに、あと30分しかないわよ」そう言って、社員を焦らせていました。
 相手はその30分の中で、「あれもこれも、やらなくてはいけない」「そうだ、あの人に連絡をしなくては」「書類はどうしよう」と、いろいろな物事が駆け廻り、頭の中がパニックになります。 実際、私の言葉に慌てた社員が、忘れ物をしたり外出先で余計な事を話したり。考えられないようなミスも、生じました。
 「あと30分ある」に、「しか」がプラスされることで、一気に追い詰めていたのです。
 こうした場合、「あと30分あるから、慌てないでいいですよ」「あと30分も、あるからね」と言われたら、ずいぶんと気持ちがラクになりますよね。忙しがり屋の「あとしかさん」では、周囲をキリキリ舞いさせるだけ損ですよ。
 さてあなたは、どうでしょうか。

(転載終了)※ ※ ※

 臼井さんは私より3つ年長。当然私も「余裕のよっちゃん」は知っている。オヤジギャグはさておき、私はせっかちの貧乏症だから、胸に手をあてずとも、あちこちに思い当るところがある。再発後、心穏やかにゆったりとロッキングチェアに揺られて・・・と言いつつ、家では内心(私だけ大変!)という匂いをぷんぷんさせて夫も息子も煽っているのは否めない。「余裕のないあとしかさん」にはならないように、と自戒を込めて、ひたすら反省、である。

 そして、再発治療開始後はとみに、何かお誘いがあった時に、「忙しい」と言った途端に自分から人との付き合いを断ち切ることになる、と思うようになった。忙しいのは皆一緒。けれど、だからこそ時間は作るもの、だと思う。「それでもあなたとお会いしたい」と思う気持ちがやりくりさせるのだ、と。

 今日は朝のうちは曇っていたけれど、湿度は高くサウナのよう。昼前からは夏の日差しになり、気温がぐんぐん上がった。市内では午後1時の気温が33℃だったという。そんな中で午前中に力仕事をする羽目になり、あっという間に汗ばんだ。お昼はごく少なめに、水分だけは出来るだけ取って済ませた。職場では「(予定)使用電力量値に達したので節電を」の放送があり、さらに一部の天井灯が消えて事務室は暗くなった。風があるのでまだ良いけれど、除湿だけでも出来るといいな、と思うのも今のご時世贅沢だろう。

 昨日の投与後、今のところお腹の気持ち悪さはあるが、ナウゼリンを飲まなければならないと思うほどではない。ロキソニンだけは明日の昼まで予定通りに飲む。明日は昼から都心に出張、土曜日は出勤、日曜日も予定ありなので、なんとかこのままやり過ごせると良いのだが・・・。
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2011.6.22 ハーセプチン139回目(3倍量2回目)、ナベルビン15クール1回目

2011-06-22 19:52:59 | 治療日記
 今日は夏至。暦の通り、真夏日になるとの予報だった。朝から強い日差しの中、電車は乗り継ぎも順調で時間通りに病院に入った。今日は診察前採血とレントゲン撮影なので、長丁場を覚悟する。
 幸いにも採血は受付後、待ち人数は5人ほどで、すぐに呼ばれた。今日は腫瘍マーカーも含めフルの検査なので3本採取。それから2階に上がって胸部レントゲン検査。こちらも10分ほどの待ち時間で終了し、再び1階に降りて内科受付へ。
 結果が出るまで一時間ちょっとかかり、「中待合へどうぞ」のランプがついてから、実際に診察室に呼ばれたのはそれから30分ほど経ってから。

 まずは検温をしながら2週間の様子の報告。やはり投与後2,3日は気持ち悪さがあり、1度ナウゼリンを飲んだこと、今回はずっと便秘気味だったことと、腰痛が気になったことをお話しする。「痛みはどうですか。」と聞かれ「悪化はしていないですが、圧痛や鈍痛、重い感じはあります。」とお答えした。
 今日も白血球は2400と低め。「好中球も低いでしょうが、上がってくるタイミングであるだろうということで予定通りハーセプチンとナベルビン実施しましょう。」となる。マーカーCA15-3は若干上昇。まだなんとか正常範囲内ではあるのだが、先生曰く「気になると言えば気になる。」とのこと。レントゲンは「前回の2月と比べて左肺の腫瘍茎はあまり変わらず、右肺の影はあまり目立たない。よって症状と画像の結果から変化なし、ということで必要以上心配することはないでしょう。」と診察が終了した。今日は3倍量のハーセプチンも1時間で点滴することになっている。

 化学療法室へ移動。名前を呼ばれるまで30分近く待った。血圧は91-56と相変わらず低め。すでにベッドが一杯で針刺も点滴椅子をリクライニングして行う。痛みは相変わらず。職場では全く空調が効いていないので、病院内がやけに寒く感じた。今日は外が暑いので特に効かせているのかどうかわからないけれど、羽織物も持っていなかったので、タオルケットを1枚追加で貸して頂き、くるまって本を読みつつ薬が届くのを待った。薬が届き点滴が開始したのはお昼を回ってから。ハーセプチン、デキサート、ナベルビン、生理食塩水の4本で2時間20分ほどかかった。
 針を抜いてもらい、再度血圧を測ってから会計へ。今日の病院滞在時間は6時間弱。ランチタイムには間に合わずじまいだった。

 今日は途中でウトウトしたり、新しくいらした看護師さんといまいち呼吸が合わず、に何度も読書が中断されて、1冊しか読めなかった。
 篠田節子さんの「仮想儀礼・上」(新潮文庫)。
 帯には「宗教は金になる 神を信じない男が教祖を名乗った 魂の彷徨を描く傑作」とある。主人公はゲーム作家に憧れて職(都庁職員)を失う。管理職試験A合格だの、総務局○○課長だの・・・と、あまりに描写が生々しく、いきなり引き込まれた。土地勘のある地名、建物名等もリアルで、さすがに社会派篠田さんの作品。上下巻とも600ページほどの長編なので、このあと下巻まで読み始めたら家に帰れなくなる・・・とグッと堪えて上巻で一時中断した。

 遅いお昼を食べてから帰宅の途へ。外があまりに暑くてびっくりした。結局、家を出てから帰宅するまで10時間弱。やはり1日がかりだ。日が長くなったので精神的に焦ることはないが、疲れることには変わりない。

 帰宅すると今回のお花が届いていた。白のオリエンタルリリーが2本と、淡いピンクと白のスプレーバラが3本。花言葉はそれぞれ「高貴」と「包容力」だという。

 昨夜、このブログを書いた後、あけぼの会のHPを開くと会長さんのエッセイが更新されていた。「Tさん、逝く」。
 息をのみ、再度エッセイを読みなおした後、しばし呆然として部屋の中を歩き回っていたらしく、気が付いたら夫と息子に「Tさん、亡くなった・・・」と告げていた。

 エッセイによれば、6月4日にストレッチャーで退院された時には、主治医から御主人にあと3日くらい、と余命宣告があったそうだ。が、その後2週間近く、ご家族と一緒に最期の時間を過ごされたという。享年55歳。来月初旬にお誕生日を控えていらした。
 亡くなったのは6月17日の夜だという。奇しくも私の誕生日だった。「私のこと、忘れないでね、治療頑張るのよ・・・」と言われているような錯覚に陥った。
 これからの誕生日は、Tさんの命日ということになる。Tさんはずっと私の心の中におられるのだと思う。10年近く厳しい再発治療に果敢に立ち向かってこられた。私は初めてお会いしてからまだ2年も経っていないけれど、どれほど数知れない再発患者に希望と勇気を与えてくださったことか。

 まだ受け入れるのに少し時間がかかりそうだ。合掌。

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2011.6.21 「快」の報酬力

2011-06-21 20:17:58 | 日記
 今日は職場でOJTを推進するための研修を受けた。
 通常業務と離れてのいつもとは違う2時間。別棟の会議室で他キャンパスからの参加者も複数あり、懐かしい顔も見つけた。

 今や研修も座学だけというものはなく、殆どがグループワークの演習スタイル。終日缶詰でバッチリこれを受けるとかなり憔悴するけれど、今日は仕事の合間、リフレッシュさせて頂けたと思える2時間だった。

 人材育成はこの「OJT(on the job training:職場内研修)」とOff JT(off the job training:職場外研修)、自己研修の3本柱から成る。ちなみに今日のように職場を離れて受講する研修は「Off JT」である。自分で資格試験のための勉強をするとか語学学校に通う、などは自己研修である。

 私が属する組織のOJTハンドブックによれば、OJTの定義は「職場において、上司・先輩等が仕事に必要な知識・ノウハウ等を意識的・継続的に指導・伝授する人材育成のための多様な取組」とされている。合言葉は「ひとりにするな、ひとりになるな」である。
 というのも、「人は仕事を通じて育ち」、「上司の影響力は大きく」、「教え合い、学び合うことを風土として定着させてこそ、組織」であるから、という論法だ。日々フルタイムで働いていれば職場で過ごす時間が圧倒的に長いし、現場での真剣勝負になるから、8割がOJTによる、と言われている。

 そして、OJTは、教える側が仕事を見直す機会であることから、ひいては「教える側が育てられる」という。いわゆる「Win-Win」といえる。振り返れば子育ても同じで、「育児は育自」というのと共通することだろう(これは日々実感していることであるが・・・。)。

 今日特に心に残ったのは、「快」の感情が大きな報酬になる、ということ。
 「成長」は「行動の変化」から、そして「行動の変化」は「思想の変化」から起こる。「強制」や「指示」でも行動は変化するが、長続きしない。自ら決意しての行動変革が一番強い。何より、やってみて「うまくいった」「楽しい」と思う(これぞ「快」の感情)と継続・反復しやすい。だからこそ、「快」の感情を呼び起こすことが必要である。そのためには基本的な信頼関係を築くことが何より重要、というものだった。

 誰だって、相手(特に上司や先輩)が自分を「認めて」くれて「気にかけて」くれていることがわかれば、嬉しくないわけはない。折りに触れて「感謝の念を伝え」、「動機づけを持たせて」もらえれば、私など本当に単純なので「よし!」と頑張ってしまう。我ながら御しやすい人間だと思う。

 まず、相手をよく観て(見て、ではない)、自分が相手をしっかり認めているかを振り返ろう。行動を変えられるのは本人のみ、とすればうまく伝える努力、成長を支援する心を持とう。職員同士の教え合いを推奨して、「快」を増やし、もっと知恵を出してもらおう、ということで時間となった。

 かつて研修担当であった時には、まだその醍醐味が分からずアタフタとプログラムを用意していたが、あれから10年以上が経ち、人材育成は、間違いなく興味深く楽しい、そして未来のある明るい仕事だ、と改めて思う。
 齢を取った証拠と言えば証拠かもしれないけれど・・・。

 今朝はまだ雨が残っていたお天気も、帰宅時にはすっかり夏空になり、とても蒸し暑い日になった。
 節電のため、事務室には空調が入っていないから、網戸のない窓を全開していると、屋外にいるのと変わりない。蚊取り線香の香りは漂っているが、帰宅すると足にはあちこち虫刺されの跡。どうも免疫力が下がっていると、ちょっと掻くだけで真っ赤に腫れて熱を持ち、膿んでくる。その後、跡が残ってしまい汚い足が出来上がり、という感じでちょっと憂鬱だ。

 今日も夫は休みをとった。私が帰宅しても気づかないで寝ていた。疲れがたまっているのだろうけれど、何とか明日は復活してもらわないと・・・。
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2011.6.20 運命は変えられるか~アジャストメント

2011-06-20 20:58:37 | 映画
 先日、映画「アジャストメント」を観た。

 原題は「The Adjustment Bureau」(アジャストメントビューロー・運命調整局)である。
 すべての運命は第三者の手によって<操作>されている、としたら・・・。フィリップ・K・ディックの原作だというが、「現実」を操作している人々がいるという基本設定と、ちょっとした「調整ミス」によって主人公が現実の舞台裏を知るという発端を別にすれば、原作とはかなり違う設定のようだ。

 ドラえもんにヒントを得たのでは・・・と思うような「どこでもドア」ではないが、運命調整局のメンバーが帽子を被ってノブを左に回すと、いきなり別の場所に出られる。

 それにしても、先日観た「ブラック・スワン」でのナタリー・ポートマンの鬼気迫るバレエにも恐れ入ったが、今回のエミリー・ブラントのダンスも凄かった。かつて観た「プラダを着た悪魔」で、メリル・ストリープ扮する鬼編集長に仕えるキャリアウーマン役をしていた彼女だとは一瞬気づかなかったほど。ダンスとはまるで縁がなかったのに、毎日革新的なモダンダンス・カンパニーでトレーニングを積んだ、という。

 後半はハラハラドキドキの逃亡劇。主人公マット・ディモンとヒロインのエミリー・ブラントがノンストップでニューヨーク中を逃げ続け、フィナーレへ向かう。
 Bureauの最高幹部はチェアマン(会長職)と呼ばれているが、最後まで姿は現さない。観客は、果たしてその人は誰? 運命の書を書いたのは誰?と問い続けながら画面に引き込まれていく。
 ・・・私は、それは神様なのだ、と理解した。

 運命は変えることが出来ないのか。自由意思ではどうにもならないのか。
 いや、何もかも賭して命がけで変えようと思えば、チェアマンは運命の書を書きかえる-つまりは運命を変えられる-というエンディングだった。
 そうか、命がけで今の自分の運命を変えようと治療をすれば、神様は筋書きを変えてくれるのかもしれない、と都合良く解釈した。それでも、これからの時間、いつも命がけでエンドレスに走り続ける・・・としたら、ちょっと疲れてしまうかもしれない。
 出来るだけきつくない治療をしながらほどほどに細く長く粘る・・・では、神様は動いてくださらないのか・・・と、ちょっぴりため息をついて映画館を出た。

 新しい1週間が始まった
 夫は昨夜から体の脱力感とふらつきを訴え、血圧も高いので、今日は休みを取ってクリニックに行った。
 風邪ではないか、との診断。今日は1日怠くてずっとベッドにいたようだ。明後日になると、私も通院治療。投与後は体調がベストではなくなるので、なんとか今日明日で元気になってもらわないと・・・。



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