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名 称:平澤寺 (へいたくじ)〔旧平澤寺跡〕
別 名:太田資康詩歌会跡
指 定:県選定重要遺跡(旧平澤寺跡)
県指定旧跡(太田資康詩歌会跡)
町指定史跡(旧平沢寺建物跡)
所在地:埼玉県比企郡嵐山平沢977(平澤寺)
〃 平沢968―2(白山神社)
〃 平沢字赤井1071(旧平沢寺建物跡)
平沢地区にある平沢寺は、平安時代の終わり頃、重忠や義仲と関わりの深い秩父氏が密接に関わっていました。創建については定かでは
ありませんが、平安時代末期には重忠の曽祖父である秩父重綱ゆかりの人々によって埋納された経筒が見つかっています。
西に山を背負い、東へと開けた谷の奥に位置する寺院で、往時には七堂伽藍と三十六の僧坊を有する大寺院であったと伝わります。発掘
調査では当時では東日本最大級とされる堂跡も見つかっており、堂の前面には池があったことが分かっています。このような参道を入り、
池を挟んでお堂が建ち、背後に山を背負う様子は、極楽浄土を表現したものとされ、奥州平泉のような情景が広がっていたようです。
鎌倉幕府が開かれる以前に各地に点在した有力武士の力の一端がうかがわれます。 (嵐山町HPより)
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現在の平澤寺
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墓地あたりから眼下に平澤寺を
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本堂前の坂道の途中にある「太田資康詩歌会跡」と「鋳銅経筒」に関する説明板
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不動尊への石段手前に並べられた礎石と説明板
写真左端が白山神社への石段
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礎石の脇に設置された説明板の内容を転記しておきます。
埼玉県選定重要遺跡
旧平澤寺跡
成覚山実相院平澤寺は、都幾川村の慈光寺と並ぶ天台宗の古刹である。
かつてはここ赤井(閼伽井)の谷津を中心に壮大な寺域を誇る寺院だったと伝え、寺の縁起によれば、七堂の伽藍と数多くの僧坊が立ち
並んでいたと記されている。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』文治4年(1188)7月の条には「13日丁未。武蔵國平澤寺院主職事。被付僧永覚訖。」の記
載があり、地方寺院としては破格の扱いを受けていたことが知られる。
現在、往時の堂や僧坊の跡は宅地や畑となって草に埋もれているが、随所に径1メートルもの大きさを測る礎石が地表に露出しており、
当時の建物の荘厳さを偲ばせている。
ここに並べた大石は道路工事の際に出土した礎石である。
埼玉県指定旧跡
太田資康詩歌会跡
太田源六郎資康は太田道灌の子である。道灌は江戸城築城等で知られる知将であったが、扇谷、山内両上杉氏の争乱の犠牲となり暗殺さ
れてしまう。
資康は、父の仇敵上杉定正を撃つべく、この地平澤に布陣したという。
その時、道灌の友であった詩歌の大家で元京都相国寺の僧、漆桶萬集丸は、はるばるこの地を訪れた。時に長享2年(1488)8月
17日であった。
萬里が陣中に36日滞在したとき、資康は、萬里のために送別の詩歌会を敵と対峙しながらここ白山神社で催した。
その詩歌会で、萬里は「社頭月」と題し作詩したことが『梅花無尽蔵』という書に次のように残っている。
「 一戦乗勝勢尚加 白山古廟沢南涯
皆知次第有神助 九月如春月自花」
埼玉県指定有形文化財
鋳銅経筒
この経筒は、江戸時代に白山神社裏手にある長者塚と呼ばれる経塚より出土したものと伝えられる。
現在は蓋を失い筒身のみが残る。筒身は簡素な無節円筒形で、やや厚手の重厚な形姿をもつ。高さは24センチ、外径12.2センチを
測り、艶のある黒褐色を呈する。
表面に刻され銘文から沙門實奥を勧進として平朝臣慈縄とその縁者が施主となって、久安4年(1148)2月29日に埋納されたもの
である。また、製作者は藤原守道ほかの人々であったこともわかる。 (写真・銘文は省略)
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不動尊
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白山神社への石段
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不動尊と墓地の間を抜けて再び石段
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/3b/0ed704fb607cdfedaa22e766e25a96a5.jpg)
現在の白山神社 詩歌会が行われたのはこことされます
この社の裏手に長者塚があるようです
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白山神社の扁額
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赤井の井戸
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赤井の井戸の説明板
内容を転記しなくてもこのまま判読できますので写真で
昨2016年2回ほど散策してきましたが、方三間堂跡(旧平沢寺建物跡)の場所がわかりませんでした。当該部分だけの写真を見ただけではどの
あたりになるのか見当が付きませんでしたし、付近の方にお聞きしてもわからないとのことでした。
それはそうですよね。何の遺構もなければ案内板もない(撤去され)場所では仕方ないです。のちにそこの番地を知った時はすでに遅し(宅地に
変っていました)まあ、いつもこんなへまばかりですが・・・
散策・撮影日:2016年(平成28年)11月27日(日)ほか