四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

昌福寺-深谷上杉氏菩提寺-(埼玉県深谷市)

2017年12月28日 | 神社仏閣
深谷上杉氏 ④
時系列通りには行かないと思いますが、深谷上杉氏に関連する史跡等をを数回にかけて紹介中!
数か所ある深谷上杉氏の菩提寺・墓所のひとつ昌福寺です。



埼玉県深谷市人見にある「昌福寺」を訪ねてみました。
昌福寺は、深谷上杉氏第5代で深谷城初代城主である上杉房憲(ふさのり)が、古河公方に備えて深谷城を築いて移ったとき、
父祖の冥福を祈るために仙元山のふもとに創建した曹洞宗の寺院で山号を「人見山」と号します。
この昌福寺を訪ねたのは、上杉房憲・憲盛(のりもり)と累代の墓があるとのことからでした。




仙元山のふもとに建つ昌福寺  このすぐ東側(右側)に、運動グラウンド、テニスコート、遊園地などもある「深谷ビッグ
タートル」という総合体育館があり、何度が来ていましたが、この寺が深谷上杉氏の菩提寺とは知りもしませんでした。




入り口前から




境内に入ると右手に鐘楼があります




お約束の六地蔵と鐘楼




鐘楼の横は庭園です




山門(仁王門) 両脇には仁王像がありますが今回は仁王像のアップ写真はありません(日差しの加減ではっきりと撮れず)




山門の貫に五七の桐紋が彫刻されています (この写真は門の裏側ですが表側も同様)




本堂




燈籠にも五七の桐紋が




「昌福禅寺」と揮毫された扁額




大棟にも五七桐紋
やはり深谷上杉氏の菩提寺である国済寺の燈籠や大棟は、上杉氏の家紋である「竹に雀」紋が使われていましたが、ここでは
「五七桐紋」が使われています。五七の桐紋は曹洞宗(大本山:総持寺・永平寺)の宗紋(総持寺)です。
それとともに、この五七桐紋は深谷上杉氏の同族である上杉謙信が足利義輝から下賜された家紋でもあります。また、後世に
なりますが深谷上杉氏もこのこの五七の桐紋を使っています。この昌福寺創建のころ、五七の桐紋が深谷上杉氏の家紋のひと
つであったかどうか分りませんが、当初はこの昌福寺も上杉氏の家紋である五七の桐紋が使われているのかと思い込んでしま
ったのです。しかし、よくよく考えたら上述したように宗紋〔総持寺〕(寺紋)であるところの五七の桐紋が使われていると
考えるのが妥当なように思えてきました。ただそうした場合、もうひとつつの宗紋である久我龍胆〔永平寺〕も併せて使うだ
ろうとか、国済寺や高台院では家紋である竹に雀紋を寺紋にしているのに、当寺では使われていないのは何故といった疑問も
残りますが。
そんなことはお寺さんに聞けばすぐにわかることですし、上杉氏の関係者ではない私が悩むことでもないのでしょうが。




昌芳閣




天童山の典座和尚と若き日の道元禅師の像  下の銘板に二人の問答が記されています  道元禅師は曹洞宗の開祖です




昌福寺誌  光沢面のために色々映り込んでしまい読めません




本堂の西側(左側)奥にある深谷城主上杉房憲公並累代之墓




石段のある立派な墓所です




上杉房憲公並累代の墓とあるだけで、説明板等がありませんので、どれが房憲の墓なのか分りませんし、他の誰の墓なのかも
わかりません。
唯一手掛かりとなるのは、【名称:上杉房憲・憲盛墓】として2基が深谷市指定文化財史跡(昭和33年(1958)11月3日指定)
となっており、何れも宝篋印塔で、房憲墓全高90.5センチメートル 憲盛墓132.6センチメートルとありますので、高さを測
れば2人の墓についてはどれだか分るかもしれませんが、縁者でも何でもない無関係の者にはそんなことはできない相談です。




裏山の仙元山の一部は公園になっていますので裏山に上って墓所全体を撮ってみました。




このように東屋もありちょっとした散策もできそうです。




本堂を裏山から




昌福寺庭園
本堂裏の庭園は、【昌福寺庭園】の名称で深谷市指定名勝(昭和37年(1962)11月3日指定)の室町中期の禅宗庭園です。




本堂の日陰となっていましたのでうまく撮れませんでした(腕のなさを天候のせいにするのはいつものことですが)

散策日:平成29年(2017)12月11日(月)

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