四季・めぐりめぐりて

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伝・箕輪城主長野業盛の墓

2024年07月01日 | 史跡・遺跡・文化財

戦国時代の上野国箕輪城(高崎市箕郷町)の箕輪長野氏最後の城主となった長野業盛(ながのなりもり)
墓と伝えられる墓所を訪ねてみました。
長野氏累代の墓は、現在の高崎市内にある長年寺、長純寺、来迎寺にあるようですが、伝・長野業盛の墓
とされる場所には、業盛の墓しかありませんし、現地説明板にもあるようにあくまでも伝承で実際のとこ
ろはどうなのかわかりません。
歴代箕輪城主:箕輪長野氏(長野業尚・信業・業政・業盛) ・武田氏 ・北条氏 ・井伊氏



『伝・箕輪城主長野業盛の墓』説明板


上掲の説明板には、どれが長野業盛の墓かは記されていませんが、真ん中の五輪塔もどきのものが業盛の
墓とされるようです。
五輪塔もどきと書いたのは、空・風・火・水・地輪の水輪と地輪の部分が五輪塔のものとは異なり、他の
塔の部材との寄せ集めのように見えるからです。
右脇のものは「無縫塔」、左脇のものは塔身部が欠落している小形の「五輪塔」



墓標(?)
正面には、「弘稱院殿箕山法輪大居士 霊位」と戒名が刻まれています
左側面には、「箕輪城主長野右京進業盛公之墓」と官名が刻まれています
また、右側面には「大正十年十月・・・」の文字が見えることから、これは墓石ではなく墓標と解してよ
いかと考えます



『伝・箕輪城主長野業盛の墓』を訪ねるに先立って立ち寄った大円寺(高崎市井出町1797)
箕輪城が落城し、22歳で自刃し果てた業盛は大円寺境内に葬られました。その当時の大円寺は今回訪ねた
『伝・箕輪城主長野業盛の墓』のある場所で、大円寺は元禄年間に現在の地に移転してきましたが、業盛
のものと伝えられる墓群はそのまま残されたという伝承のようです。



大円寺本堂の向拝右側に掲げられている長野業盛の絵馬


『伝・箕輪城主長野業盛の墓』は、大円寺のほぼ西方約600mにありますが、その途中にある標識。

散策日:令和6年(2024)6月24日(月)

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