四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

女影ヶ原古戦場 (埼玉県日高市)

2018年10月21日 | 古戦場・陣所


名 称:女影ヶ原古戦場(おなかげがはらこせんじょう)
概 要:建武2年(1335)北条家の再起をはかり北条時行が信濃で挙兵、鎌倉へ進軍。これを食い止めんと渋川義季ら足利方
    の軍勢が女影ヶ原で時行軍と対陣しますが大敗して渋川義季らは自害したという。「 中先代の乱」と言われる一連の
    戦いの中のひとつとなった古戦場
指 定:県指定旧跡(女影原古戦場の名称で 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:―
所在地:埼玉県日高市女影 霞野神社周辺

■鎌倉時代 
 鎌倉時代になると鎌倉幕府は兵員馬匹を鎌倉に集めるために街道の整備を行ないました。この街道は鎌倉から関東諸国・信
濃・越後・陸奥方面に向かっており、上道(かみつみ))・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)・秩父道などと呼ばれ
ていました。日高市内を通っているのは上道で、大谷沢から女影を通り駒寺野新田へ通じています。中世を通じて鎌倉街道沿
いは数多くの合戦の舞台となりました。
 南北朝時代の建武2年(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉十五代執権北条高時(ほうじょうたかとき)の遺子時
行(ときゆき)は、信濃で諏訪頼重(すわよりしげ)らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街
道を南下鎌倉を目指しました。そして7月22日、それを阻止しようとする足利直義(あしかがただよし)軍と初めて合戦に
及んだのが女影原でした。
 この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り7月25日に鎌倉を占領しました。この一
連の戦乱を「中先代の乱(なかせんだいのらん)」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻められ、時行は鎌倉から敗走
しました。
                                 【日高市ホームページ「日高の歴史」から】

この女影原の合戦の場となったのが、現在の霞野神社周辺と言われております。そんな古戦場跡とされる霞野神社周囲と鎌倉
街道上道を散策してきました。




県道川越日高線(埼玉県道15号線)の「女影」交差点から霞野神社(女影ヶ原古戦場跡)方向へ向かいます




鎌倉街道上道の緩い坂道を行くと、下小畔川に架かる「諏訪橋」です。
霞野神社の旧称が諏訪神社であったことに由来する名でしょう。




諏訪橋の傍に、諏訪橋改築記念碑(左)と享保18年(1733)の日本廻国供養塔(右)が建っています。




霞野神社の森です




霞野神社鳥居の前は五差路になっています(この写真では1本は隠れてしまいましたが)
鎌倉街道上道はこのまま真っ直ぐに進みます




霞野神社参道前

霞野神社は元は諏訪神社といい女影の村社でしたが、明治39年(1910)10月、埼玉県指令により旧女影村一帯の神社を合
祀して新たに建てられた神社です。この合祀記念碑が拝殿前に建立されています(後述)

このような村の周辺の社を合祀した例としては、やはり鎌倉街道沿いにある比企郡小川町奈良梨の八和田神社(奈良梨陣屋跡)
も元諏訪神社で、八か村が合併して八和田村となったことから八和田神社に改称しています。




霞野神社の社号標  旧社格の村社の部分セメント?で埋めて消してありますが逆に目立っています




神額「霞野神社」




参道から社殿を




手水舎と霞野神社社務所
手水鉢は、安政4年(1857)3月と安政6年(1859)3月に奉納されたものふたつが並んでます。




拝殿 




扁額{霞野神社」




社殿の斜め後方に神社東側の道路に向って建てられている石標




「史蹟 女影原古戦場趾 埼玉縣」と刻まれているの石標
刻まれた文字が浅くなって読み辛くなっています。




拝殿石垣前に設置されている説明板




女影ヶ原古戦場跡 と 鎌倉街道  の説明文のアップ
 



説明板にある 「霞野神社の本殿 付 剣道の懸額」
社殿の右側面にある2枚の懸額のうち左側のものが、文久元年(1861)4月穀日に、甲源一刀流の比留間和十郎源信治の門弟
が奉納したもの。




境内末社




宝物殿




女影ヶ原一ノ宮 霞野神社合祀記念碑




霞野神社合祀記念碑の裏面

合祀誌 女影ヶ原一ノ宮 旧名 諏訪明神
明治43年10月5日埼玉県指令により旧入間郡高萩村大字女影字諏訪山444番地鎮座諏訪神社同443番地琴平神社同字宿
西八幡神社三柱神社八雲神社同字小河原天神社稲荷神社同字北竹ノ内825番地白髭神社同字山神社同村大字中沢栁久保221
番地白髭神社同字宿方愛宕神社同西腰金山神社同字森ノ腰白山神社同山下滝神社の各社をもって明治43年10月17日大字女
影諏訪山444諏訪神社に合祀社號を霞野神社と改称した
    昭和50年4月15日   霞野神社氏子中




拝殿前から鳥居方向を見ています
この境内を含む一帯が女影ヶ原の戦いの場となったのでしょう




霞野神社鳥居前の鎌倉街道上道と、右に分かれる道との間のごみ収集所の脇に道標を兼ねた「大乗妙典碑」があります。




判読が困難な状態になっていますが、「左 入間川 所沢みち  右 あうぎ町谷 八王子道」と刻まれているようです。

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)・9月3日(月)

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