四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

小川町で一番古い板碑と一番大きい板碑

2023年11月03日 | 史跡・遺跡・文化財

                                  《太子堂の板碑》
『国指定史跡 下里・青山板碑製作遺跡』がある埼玉県小川町には1,000基を超える板碑が確認され
ていると言います。
そんな数多い板碑の中で紀年銘がある一番古い板碑と一番大きな板碑を訪ねてみました。


ここは小川町大字木呂子地内です。昔は木呂子村と言い、明治の大合併で他5村との合併で竹沢村
となり、昭和の大合併で小川町となりました。位置的には小川町の西端にあたります。
確認されている範囲で一番古い板碑は木呂子の太子堂にあるということで、その太子堂はどうもこ
の山の辺りのようでした。


麓の坂道を登っていきましたが、民家に突き当たってしまいましたので引き返し・・・


ここかもしれないと階段を上ってみることに


階段が終わったところを右に進むと・・・


見えました。太子堂のお堂のようです。手前には写真で確認してきた板碑があります。


風化が進んでいるようで陰刻がほとんど消えかけています。
この板碑は建長年間(1249~1256)ということでしたので、紀年
銘を探してみましたがどこにあるのか探せませんでした。


かろうじて阿弥陀三尊種子(キリーク)がわかります。


横から見た状況  欠けている部分は自然? 故意?


取り合えず小川町内では一番古いとされる板碑を確認できましたので、次に一番大きい板碑に向か
うことに。


麓には庚申塔、出羽三山(羽黒山・湯殿山・月山)供養塔などが集められています。三猿もありま
す。


1基1基見たわけではありませんからいつのものかはわかりません。


左から2番目のものが三猿庚申塔


天台宗 薬王山瑠璃光院普光寺(ふこうじ)
先ほどの木呂子太子堂とは反対方向、つまり小川町の市街地を挟んで東方にあります。
西から東へと長い距離を移動してきました(とはいえ同じ町内ですから)
ここは小川町大字中爪  昔は中爪村 明治の大合併で中爪村等8村が合併し八和田村となり、昭
和の大合併で旧・小川町,大河村、竹沢村との1町3村の合併により現在の小川町となっています。


厄除け元三大師  小川厄除大師  中爪の大師様と呼ばれています


中央にあるのが小川町内では一番大きな板碑といわれるものです。


横から見てみましょう。
高さがどれだけあるのか資料がないのでわかりませんが、大きいことはお判りいただけるかと思い
ます。但し・・・


このように阿弥陀三尊種子を残し「二十二夜待供養塔」に転用されていますので、いつの板碑か全
くわかりません。 ※寶暦二壬申年・・・1752年
このことから板碑と呼んでよいのかちょっと迷いますが、元は板碑であり、今も板碑のカタチを残
していますので、一応、町内では一番大きな板碑としているようです。
2番目に大きな板碑は、小川町大字青山地内(青山村→大河村→小川町)の大橋堂阿弥陀三尊板石
塔婆(板碑)で、高さが2.93mあり町指定文化財になっていますが、一番古い太子堂板碑と一番大
きいこの普光寺の板碑(二十二夜待供養塔)については文化財指定はありません。
今でこそ同じ小川町ですが、これら板碑が建立されたときはみんな違う村だったわけでして・・・


茅の輪は一年中あるようです。


山門を潜ると参道両側にも板碑が並んでいます。


本堂に向かって左側


本堂に向かって右側


鐘楼


本堂と石灯篭
左右の石灯籠は、芝・増上寺の徳川将軍家霊廟に奉献されたもので、有章院(徳川家継)に一柳因
幡守直卿、阿部因幡守正良からのものです。
増上寺の石灯篭が何故ここにという話をすると長くなりますので省きます(本題から逸れてしまい
ますし)


本堂


普光寺の左隣にある 中爪 八宮神社 かつては寺(普光寺)持ちでしたが、明治以降は神仏分離
により一社となりました。


因みにこれが小川町で2番目の大きさを誇る大橋堂の阿弥陀三尊板石塔婆(板碑)です。
名 称:大橋堂 阿弥陀三尊種子板石塔婆
建 立:正慶2年( 1333)4月15日(鎌倉時代末期 )
形 状:緑泥片岩、高さ 293Cm 下幅 67Cm
指 定:小川町指定有形文化財(考古資料)昭和53年(1978)3月17日指定
所在地:比企郡小川町青山1520

散策日:令和5年(2023)11月2日(木)

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