AKB48の旅

AKB48の旅

再び「強運」について

2014年05月29日 | AKB
指原さんのツイッターによる外向けの「切り込み」に続いて、大島さんのぐぐたす様子伺いの露払いから、川栄さん、入山さん当人によるぐぐたす解禁という流れ。たぶん間違いないと思うけど、秋元氏自らの采配による危機管理なんだろう。指原さんのツイートは、一つのテキストを5分割したのは明らかで、秋元氏とのメールでの遣り取りによるチェック後に、ツイートしたものと推測される。これ以上は考えられない見事な内容にして手順だったと思う。

その後、堰を切ったように再開されたぐぐたすの書き込みが、そのほとんどが生気に満ちた、リアルな情感に溢れた素晴らしいものだった。一時、灰色にくすんでしまっていたかに見えた世界が、一気に鮮やかな色彩に溢れた美しいものへと蘇った、そんな比喩表現をしたくなるくらい。総選挙の速報発表直後の書き込みも高く評価させていただいたばかりだったんだけど、それを遥かに凌駕する、正にリアルヴァーチャル連続体にして、「会いに行けるアイドル」そのものと感じられた。

不謹慎と取られるのを恐れるのだけど、今回の事件でもまず思うのが「強運」ということだった。現時点で報じられてる犯人の動機からすれば、怪我をされた3人には申し訳ないけど、よくぞこれくらいで済んだとも言えそう。同様の事件が、例えばアメリカで起こったなら、銃の乱射による死者多数になった可能性が高いだろうし、日本であっても、「秋葉原通り魔事件」のように、殺傷力の高い武器を使われていたなら、こんな程度では済まなかったはず。

もしそうなっていたなら、そしてその可能性は恐ろしいことに十分にあったことになるけど、無防備であることを暗黙の前提としていた現状の日本型アイドル文化は、完膚なきまでに破壊されていた可能性が高い。短期的には、善意は悪意に、信頼は裏切りに、愛は暴力に決して勝てない。そこを乗り越えていくためには、許しと忘却を積み重ねた上での長期的な関係性を地道に構築して行くしかない。けれども日本以外の近隣諸国が正にそうであったように、短期的に殺戮され悉く破壊されてしまうのであれば、そこには相互不信と利己しか残り得ない。

今回の事件では、そんな最悪の事態は免れたのみならず、退院時の報道やぐぐたすの様子を見る限りは、川栄さんも入山さんも、そして他のメンバーの多くも、再起不能の深手を負ったようには、少なくとも私には見えなかった。もちろん今後のことはなお不透明だけど、それでも想定し得る最小限という表現を使うことをお許し願いたいんだけど、最小限の範囲の被害で済んだとも言えそう。

こういうのを「強運」とするのは間違いだというのは分かってる。それでも敢えて言うんだけど、AKBは、何より秋元氏は「強運」の持ち主なんだろう。そして、怪我の功名という表現を持ち出すことにも躊躇を覚えるけど、致命的となり得たかもしれない事態を、事件を、無傷ではないにしても乗り越えて行けるのだとしたら、それは逆説的な意味での望外のことと言っても良いのではないだろうか。