8月15日の前後には、いろいろ体験談を語り継ぐというテーマが出てきます。
誰にとっても、自分がたどってきた過去を語るものがあるように思いますが、この時期に関しては、戦争に関するものが特記されます。
語り継ぐことで後世に伝え、同じ過ちを犯さないという、そういう意味合い。
その大切さはすごくわかります。
反面、語り継ぐ間に変質が起きたらどうなるんだろう?というのもふと思ったり。
というのは、「自家製 文章読本」(井上ひさし)の最後の方に(p.247)、『言語で完全に表現することは、どんな天才にもできやしない』と書いてありました。
何に関してかというと、『われわれの心の生活の中にある「なんだかぼんやりしたもの。だが自分にとってはのっぴきならないくらい重大なこと」』
体験というのは、事実を語るのだから、「心の生活の中」とは違う確固たるもののようにも思いますが、例えば同じ体験をした人が、みな同じ気持ちを抱いているかというと、そうとは限りません。
先日、ミニ同級会をした時に、体験というか、あれこれ出来事を振り返ってみると、共通の体験なんだけれど、受けとめ方には違いがある、それは感じました。
もちろん、同じ場所にいたといっても、立場が違えば感じるものは違ってくると思います。
言葉や文字で表現するというのが、いかに大変なことかというのは日々実感しているんだけれど「自家製 文章読本」を読んで、なおのことその大変さがわかりました。
誰にとっても、自分がたどってきた過去を語るものがあるように思いますが、この時期に関しては、戦争に関するものが特記されます。
語り継ぐことで後世に伝え、同じ過ちを犯さないという、そういう意味合い。
その大切さはすごくわかります。
反面、語り継ぐ間に変質が起きたらどうなるんだろう?というのもふと思ったり。
というのは、「自家製 文章読本」(井上ひさし)の最後の方に(p.247)、『言語で完全に表現することは、どんな天才にもできやしない』と書いてありました。
何に関してかというと、『われわれの心の生活の中にある「なんだかぼんやりしたもの。だが自分にとってはのっぴきならないくらい重大なこと」』
体験というのは、事実を語るのだから、「心の生活の中」とは違う確固たるもののようにも思いますが、例えば同じ体験をした人が、みな同じ気持ちを抱いているかというと、そうとは限りません。
先日、ミニ同級会をした時に、体験というか、あれこれ出来事を振り返ってみると、共通の体験なんだけれど、受けとめ方には違いがある、それは感じました。
もちろん、同じ場所にいたといっても、立場が違えば感じるものは違ってくると思います。
言葉や文字で表現するというのが、いかに大変なことかというのは日々実感しているんだけれど「自家製 文章読本」を読んで、なおのことその大変さがわかりました。
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