ヒュースタ日誌

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コラム再録延長(5)『ハードランディングとソフトランディング』

2013年03月27日 16時59分34秒 | メルマガ再録
 ここ2回の本欄をお読みになって「自分(の子)の場合とはぜんぜん違う」「そこまで落ちないと不登校やひきこもりは終わらないのか?」などと違和感を感じた方が少なくないと思います。
 そこで最後に、私のようなケースとそうでないケースを、比喩を用いて比較してみましょう。

 飛行機の着陸の仕方で「ハードランディング」と「ソフトランディング」という用語をご存じだと思います。前者は強行着陸=減速せずに激突して着陸すること、後者は軟着陸=減速しながらふわりと着陸すること、ですね。

 ご存じのとおり、このふたつの用語は、いろいろな分野で比喩として使われますが、私は、不登校やひきこもりの“終わり方”にも使えると思っています。

 すなわち、私のように<底つき>までいったことで楽になる、という“終わり方”は「ハードランディング」と表現できます。
 「<学校復帰、社会復帰しなければならない>というこだわりがとれないまま、文字どおり走り続け、壁に激突してようやく止まった(=葛藤を抱えたまま生き続け、ついにはその生き方が破綻した)」というイメージです。

 それに対し<底つき>までいく前に、徐々にこだわりがとれ、楽になってきた、という“終わり方”は「ソフトランディング」と表現できます。
 「前記のようなこだわりが徐々にとれ、走る速度が落ちてきて、壁の前に立ち止まった(=葛藤がうすれていき、新しい生き方を探せるようになり、ついにはそれが見つかった)」というイメージです。

 そこで、このふたつの終わり方を比較すると、本人にとって、より楽なほうは「ソフトランディング」でしょう。
 つまり本人の葛藤が早く収まれば、暴力や神経症的症状などの二次症状と呼ばれる行動も、あまり続かないか起こらないですみます。
 さらに、早く心理的安定を取り戻せば、自分で家庭の外に居場所を探してそこに通えるようにもなります。

 近年、フリースペースやスリースクールなど、学校や一般社会以外に居場所や学びの場が増えていくにつれ、私のような「ハード~」が減っていき「ソフト~」が増えているようです。
 この事実は、彼らの選択肢が増えれば、彼らから無用の苦しみが取り除かれ、人とのつながりが回復しやすくなることを示しています。

 ただ、ここで注意しなければならないことがあります。
 それは<学校復帰、社会復帰しなければならない>というこだわりがとれないままで、学校や社会に復帰する青少年がいることです。

 すなわち、不登校やひきこもりは、一般に「学校に行くべき」「就職すべき」という規範意識と「学校に行きたくない」「就職したくない」という本音とが拮抗していて、わずかに後者が勝っている状態です。ということは、前述のこだわりを抱えたまま、学校や社会に復帰する青少年の場合「規範意識が本音に勝った」と言うことができます。

 見かけ上は、このような終わり方も「ソフトランディング」です。そしてこれは、学校や社会にとっては、とても望ましいことでしょう。しかし本人にとっては、必ずしもそうとは限りません。なぜなら、終わり方に無理があるからです。本人が無理しているからです。

 これまで繰り返し述べているように、無理なプロセスは、あとでもっと深刻な事態を引き起こす可能性をはらんでいます。
 実際、ひきこもりや神経症に悩む青年のなかに「子どもの頃、不登校になりそうだったけど我慢して学校に生き続けていた」という人がいるのです。

 規範の大切さにとらわれて、無理して見かけ上の「ソフト~」を演じるくらいなら、苦しみ抜いた末、規範より大切なことに気づく「ハード~」のほうが、得るものははるかに大きいです。
 もっともこれは、不登校とひきこもりの終わり方が「ハード~」だった私だから言えることかもしれません。

 確かに私は、相談を受けるにあたって「早く終わらせるべきだ」ではなく「どんなに苦しんでも大丈夫、必ず終わる」という前提に立ちます。
 本人の苦しみを無理に除去することより、苦しんでいる本人の支えになる対応を重視しているわけです。
 不登校とひきこもりの“終わらせ方”はなく、終わらせることができるのは、当の本人以外にいないからです。

 ただし私は「ハード~」を勧めているわけではありません。「最悪、ハード~でも大丈夫」ということなのであって、もちろん「ソフト~」に越したことはありません。要は、不登校とひきこもりの終わり方は、どちらでもいいのです。

 なぜなら「ハード~」「ソフト~」のどちらの終わり方も、前号で述べたプロセス──「常識」とか「あるべき自分」といった“つくられたもの”ではなく「自分の命」という“もともとあったもの”を基準に、物事を感じ、行動に反映させるようになる──であることに違いはないからです。その最中に現れた葛藤が、強いか弱いか、葛藤が長く続くか短く終わるか、という違いに過ぎないからです。


2005.03.16 [No.97]


『不登校・ひきこもりの“終わり”へ 〔中〕「命」という出発点に立ち返る』を読む
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コラム再録延長(5)掲載のお知らせ

2013年03月27日 16時42分14秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して本欄で実施していた「コラム再録」を3か月間延長のうえ、半分の頻度で実施する「コラム再録延長」も、いよいよ最終回を迎えました。


 きょう転載するのは『不登校・ひきこもりの“終わり”へ 〔下〕ハードランディングとソフトランディング』。この3回シリーズの第1回『〔上〕心は不死鳥』を去年12月に転載した際、末尾に〔中〕のリンクを貼っておきましたので、続けてお読みになった方もいらっしゃるかと思いますが、あえてきょう転載するのは、不登校やひきこもりが終結するときの様相とその意味を伝えるものとして、7年以上経った今でも高く評価していただいているからです。

 特にタイトルの「ハードランディングとソフトランディング」というたとえ言葉は、筆者の周りの当事者や親御さんや研究者の方々によく引用されています。

 不登校やひきこもりがどのような感じで終わるのか、そして無理のない終わらせ方はどういうものなのか、対応や支援を考える参考にしていただければ幸いです。



 では、遅くなりましたがこのあと掲載します。
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