俗事もなんとか終わり、家の門に門松、玄関にしめ飾りをかざり終えて、今年最後のブログといったことろでしょうか。
上田紀行先生と良き御縁をいただき、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻の「生命の科学と社会」という講座で非常勤講師をしました。来年もやることになっています。その講義が終わった折、「今、ここに生きる仏教」という新刊本を頂きました。
サインもしていただき、No Book, No lifeを信条としている身にとっては、実にありがたいことです。
この本は、大谷光真(浄土真宗本願寺派第24世門主)と上田先生との対談本です。
一言でいうと、実に面白い、本質的な、そして読み方によってはコントラバーシャルな議論が繰り広げられている本です。
この本を読む前は、伝統的な日本仏教の果たす使命はすでに終わっていると思っているので、「なにを今さら・・」という冷めた気持ちもなくはありませんでした。中国大陸経由で日本に渡来した仏教はいわゆる大乗仏教であり、仏陀が説いた言説(アーガマと呼ばれる原始仏教経典が最も忠実にその教えと法に関する言説を残している)とはほど遠いものです。以前、阿弥陀仏の由来について考えてみましたが。
大乗仏教、ならびにその一つの中心をなす「法華経」に対する率直な見解を以前一文にしたことがあります。対談の中でも語られているように、かつては葬式仏教とさえ揶揄された、その葬式仏教さえもが成り立たなくなっているジャパナイズされたローカル仏教(日本教仏教派)は確かに危機的な状況にあります。
さて、浄土真宗は、修行、呪術、エゾテリック(密教的)な行法などを完全否定し、ひたすら阿弥陀如来の慈悲にすがる(まさに他力本願)ことにより、極楽浄土に往くことを教義の中心に置きます。
如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま受け入れて心底信心するすると、ただちに浄土へ往生することが決定的に予定される、その後は報恩感謝の念仏三昧の人生をすごすべし、という教え(三密の語密のみを取り出して、身密、意密を省略)です。
同著の中でもっともびっくりしたのは、大谷門主のこの言葉。
「・・・『仏教者には何が必要なのか』という質問について非常に考えましてね。はたと思いついたのは「修行」が必要だと」(117ページ)
そうですか、「非常に考え」て「はたと思いついたのが修行」なんですね!
なにげない言葉のように聞こえますが、実はこの発言は真宗の教義の根本に関わる一大時事です。
すかさず、上田先生は、
「修行を否定する真宗の中でそれをおっしゃるとは!」と叫びます。
その後で、大谷門主は「人生修行」という意味です・・・とある種、言い訳のような言辞を繋ぎますが、「修行が必要だ」は間違いなく本音でしょう。あとがきで「少し口が滑ったところもありそうです」(285ページ)と言っていますが、それは、この部分を含んでいるはずです。
ただし真宗が依経とする「観無量寿経典」にも、阿弥陀仏の浄土に往くための「十六観法」(=意密)という意密系の修行法が説かれています。決して唱名念仏だけで成仏するわけではありません。大谷門主が「十六観法」について言及しないのはちょっと不思議です。
さて、仏教における修行は、ここでも述べたように根本仏教経典で仏陀が説いている修行法(メソドロジー)に他ならなりません。法然、親鸞の日本ローカルな閉じた血脈(けちみゃく)にとらわれることなく、世界宗教としてのBuddhismの、学問的にも検証されている原始経典群テキストに結集・継承されているメソドロジーに回帰すればおのずと答えはあるのですが。。
その他、大変興味深い議論がなされています。上田先生によるおっとりとしながらも切れ味鋭い質問が、大谷門主の本音を引き出し、次々とタブーを破るような議論へ繋がってゆきます。
上田先生は、龍谷大学に新設された実践真宗学研究科で非常勤として教鞭をとられるそうです。どんな講義をされるのか興味津津です。